2020年1月15日水曜日

穴の歌

やあダイジョウブだよ、関係ないさ。
そもそも人はみなニブイところがあるのさ。

ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。(中井久夫「ヴァレリーと私」)
結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできないのだ。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳をもたないのだ。ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような体験ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい経験を言い表わす最初の言葉であるとする。この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。(ニーチェ『この人を見よ』)


ボクは子宮がないから女のことにニブイよ、
キミはオチンチンあるかい? 
なかったら男のことにニブイよ。

キミにオコラレテ在庫のままにしているのをついでに貼り付けとくよ、

これぐらいだったらいいだろ?  
ゴダールとジャコメッティで格調高いんだから。
しかもバックグラウンドはバッハの教会カンタータだしな






不気味な穴
女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュimage du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
享楽の穴
享楽は去勢である。la jouissance est la castration. (ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
リビドーは、その名が示しているように、穴に関与せざるをいられない。La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
享楽の名le nom de jouissance…それはリビドー というフロイト用語である。(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
享楽の対象Objet de jouissance …フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
モノ=享楽の空胞  [La Chose=vacuole de la jouissance] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)
原穴の名
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
〈大文字の母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、「原穴の名 le nom du premier trou 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou (コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014)









こういったのってクセになるからもう返事しないよ
まえみたいに教師やらされたらたまったもんじゃないしな

でニブイって言葉はもう使わないようにするよ
なんかきみに一度いったのかな
口がすべっただけさ

マヌケとかビョウキだったらいいかい?

私は相対的にはマヌケ débile mental にすぎないよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様に相対的マヌケdébile mentalにすぎない。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな。(ラカン、S24, 17 Mai 1977)
私はビョウキだよ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているからな。j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


どの超自我のこと言ってんだろうな、啓蒙ってあるから言語かな。

言語は父の名である。そしてさらに、言語は超自我である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(ジャック=アラン・ミレール、MILLER Jacques-Alain, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthiques, séminaire 96/97)

ボクの趣味だと女という超自我がいいんだけど。

一般的には神と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ま、それはこの際どうでもいいけど
大切なのは人はみなビョウキだってことだな
ビョウキの種類がちがうだけで。
ラカン派のテーゼ、
「症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme」
ってのは何よりもまずそういうことだよ