2020年1月11日土曜日

志位和夫というデマゴーグ

まず最初に中東研究者飯山陽さんの志位和夫批判を掲げるが(わたくしは彼女の観点を全面的には支持しているわけではないことを先に断っておこう。だが相対化のための言説としては大いに役立つ)、彼女の批判の対象は志位氏だけではない。

スレイマーニーに関して、彼女の観点からみた「先入観」に囚われている日本言論界のインフルエンサー influencer(NHKや朝日新聞等も含む)に対してことごとく強い批判をなさっている方である。《私の狙いは事実に立脚した研究・分析により、偏向した中東イスラム報道、それに協力する左傾化した文系学問業界と戦うことである。》(2020年01月11日)

飯山陽@IiyamaAkari 米軍が殺害したスレイマーニーは外交や法など国際社会のルールの一切が通用しないイラン公認武装工作組織の参謀であり、中東各地で市民を惨殺してきた人道に対する大犯罪者である。共産党志位氏は自らクドゥス部隊の新司令官と「お話し合い」でもしてみるがいい。
https://twitter.com/shiikazuo/status/1214094825114390529?s=20(2020年01月07日)
飯山陽@IiyamaAkari 共産党の志位氏はスレイマーニーを「主権国家の要人」と盲信しているが、実際はイランという主権国家公認の対外工作武装組織の指導者であり、イラクやシリア等で数万人の市民の死に関与し、複数のテロ組織に資金援助し、国連の渡航禁止制裁の対象にもなっていたテロリストだ。
https://twitter.com/shiikazuo/status/1213436499573628929?s=20 (2020年01月05日)


さて表題の「志位和夫というデマゴーグ」について誤解のないように、まず「デモクラシーとデマゴーグとファシズム」の文献集から一部を抽出しておこう。一部といっても長いが誤解を避けるためにはやむえない。

以下の観点に立てば、飯山陽も志位和夫もデマゴーグである。


デマゴギーは本当に近い嘘
人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ(……)。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のためにもっとも必要としているのは、この種のコミュニケーションが不断に成立していることである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
デモクラシーにはデマゴギーは付き物
デマゴギーというのは僕らにとっての宿命というくらいに僕は思ってるんです。つまりデモクラシーという社会を選んだんだ。それには付き物なんですよ。有効な発言もデマゴギーぎりぎりのところでなされるわけでしょう。

そうすると、デマゴギーか有効な発言かを見分けるのは、こっちにかかってくるんだけれど、これはなかなか難しい。つまり、だれのためかっていうことだ。マスのためだとしたらデマゴギーは有効なんですね。デマゴギーはその先のことなんて考えないからね。

それにしても、政治家もオピニオンリーダーたちも、マスイメージにたいして語るんですね。民主主義の本来だったら、パブリックなものに語らなきゃいけない。ところが日本では、パブリックという観念が発達してないでしょう。(古井由吉『西部邁発言①「文学」対論』)
パブリックについて(カント的転回)
自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない、と。ここで私が理性の公的使用というのは、ある人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、ーー公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。

(中略)しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員――それどころか世界公民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向かって、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差支えないのである。(カント 『啓蒙とは何か』)
通常、パブリックは、私的なものに対し、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。ここに重要な「カント的転回」がある。この転回は、たんに公共的なものの優位をいったことにではなく、パブリックの意味を変えてしまったことにあるのだ。パブリックであること=世界公民的であることは、共同体の中ではむしろ、たんに個人的であることとしか見えない。そして、そこでは個人的なものは私的であると見なされる。なぜなら、それは公共的合意に反するからだ。しかし、カントの考えでは、そのように個人的であることがパブリックなのである。(…)

世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してもそうすることである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P156)
公共的合意の不充分性
ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)





ここでの問いは、志位和夫という一党の党首がパブリックなものに向けて語っているか否かである。つまり、柄谷=カントを受け入れるなら、《世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してもそうする》ーーそうしているかである。

ここでもう一人の中東研究者のツイートを掲げておこう。

池内恵@chutoislamいっぺん内在的に向こうの論理を理解できるようになった上で、さらに次の段階でそれを相対化し、周辺諸国や世界全体の中で位置づけ直す、そういう文章を書ける人が次に出てこないといけない。その過程の苦しみなのか、日本の経済的衰退と共にこの段階で頭打ちで終わってしまうのか。 https://twitter.com/KS_1013/status/1215659099917963265…
池内恵@chutoislamある水準の文章を「書ける」人が出てくることは、それを「読める」聴衆が育つこととほぼ同義。たまにどちらかが前後するが。(2020年1月11日)

長年、反米、反自民で選挙民の支持を得ようとしてきた政党の党首にこの「相対化」が可能なのだろうか? 志位和夫は「否定判断」に終始している人物に思えてならない。彼から「無限判断」をきくことは稀である。

別に柄谷の言い方ならこうである。

共産党はずっと、「平和とよりよき生活」という最小限綱領でやってきました。選挙で一般大衆の票が欲しいからです。…最小限綱領とは、誰もが賛成できるようなことから出発するということですね。しかし、それだけでやっていると、だめになります。活動家も非活性化する。最大限綱領とは 「理念」だ、といってもいいでしょう。この理念がないと、運動は続かないし、堕落してしまいます。(柄谷行人「生活クラブとの対話」)

 綱領はいろいろさわっているようだが、結局「平和とよりよき生活」の党ではないだろうか。そのときどんな平和なのか? どんなよき生活なのか? 共産党ファンの方々に是非提示して頂きたいものである。まさか選挙で一般大衆の票を獲得できればなんでもアリではあるまい・・・



ここで話をいくらか変える。

このところ、「戦争反対のアポリア」や「なるべく多くの人が気づいてくれれば良いのだが…」などで記した内容とは、単純化して図で示せばこうなる。






で、どれなんだろう。
戦争反対自衛隊派遣反対と常に言ってる志位氏、あるいは彼の党の応援団は。
左下なのか左上なんだろうけどさ、たぶん。
でも右下ってのもホンネとしてはアリじゃないかい?

たとえば北朝鮮の「要人」がロケットぼこぼこやり出したら
介入せざるをえないだろ?
それともトランプに頼むのかね


米国ってのはかつてのタテマエとしての右上から
ホンネとしての右下へ移行中だよ
とくに中東、ってのかホルムズ海峡は
もうオレの国はシランという立場だからな
シェールガスやシェール石油開発で
ホルムズ海峡の警察官やる意味なしになったから。







で、最初の図にもどればもっと別の区分の仕方があるのかね
共産党ファンの方々に教えてほしいのだけど。

ボクは右上なんだな、左上にも未練はあるけど。

そもそも戦争反対自衛隊派遣反対のみなさんが警察官嫌いだったら
まず国内の警察官一掃したらどうだろ?
それを否定するなら一国平和主義派ってことになるな
別名、ムラ社会正義派。



以下、右上派の岩井克人と左上派の柄谷行人を挙げとくよ
むかしの話で最近の連中は何いってるのかよくしらないけど、
これがこの今でも「正当的な」ふたつの立場じゃないかな

左上を論理的につきつめれば柄谷曰くの世界同時革命しかないんじゃないか
それが嫌いな戦争反対自衛隊派遣反対派はやっぱムラ社会正義派だよ
あの村人ドツボらしき志位とかにきいてみたらハッキリするさ







この10年近くのあいだに主に報道されているのはシリアだが、むしろコンゴがこの今とんでもない「ルワンダ」再現になっているのを人権派のみなさんはご存知だろうか? 

大きなニュースにならなかったら正義派のみなさんは無視かね、長いあいだ共産党シンパだった加藤周一はこういう連中を八百屋のおっさんと呼んでいたけどさ。



私は知ってしまった。だから私には責任がある
『私は知ってしまった。だから私には責任がある。』

これはルワンダでの大量殺戮の目撃者の発言です。アメリカのニュース番組で耳にして以来、私の頭から離れない言葉です。

ボスニアでの民族浄化作戦よりも、カルガモ親子のお堀端の散歩のほうがテレビで大きく報道される日本です。だが、その住民である私たちでも番組をCNNやBBCに切り替えれば、いやでも「知る」ことになります。テレビだけではありません。インターネットはもちろん、新聞雑誌や書籍を通してさえ、私たちは世界で何が起こっているのかをいやおうなしに「知って」しまうのです。

これが冷戦時代であったなら、遠くの紛争について私たちが「責任」を感じる必要などなかったでしょう。冷戦とはすべての紛争を米ソの代理戦争に還元する装置でした。そこではどちらか一方の当事者に加担せずに、紛争の解決のために力を貸すことは不可能でした。それゆえ世界中すべての人間は、世界市民である以前に、親米か親ソかという役割を演じざるを得なかったのです。

冷戦は終わりました。それは「知る」ことがそのまま世界市民としての「責任」を 負う時代になったことを意味するのです。

神棚に祭り上げられた憲法九条
ここに憲法九条の問題が浮上してくるのです。

私は1947年に生まれました。同じ年に施行された日本国憲法とは、もの心がついてからずっと神聖にして不可侵の存在でした。とくに九条は人類の未来を先取りした平和思想の表明として、誇るべき日本の財産だと思っていました。

もちろん九条は空洞化して久しい。九条の条文を素直に読めば、(芦田修正による曖昧さを考慮しても)それが自衛隊を含めた一切の戦力の保持を禁じていることは明らかです。九条が禁じる戦力に自衛隊は含まれないという政府の見解は、詭弁でしかありません。しかしながら、日本にはすでに長い間自衛隊が存在し、しかも国民からも一定の支持を得てきました。

どのような法律でもそれに違反する事実を長く放置すると、立法的に廃止手続きをとらなくても法的な効力を失ってしまうと言われています。その意味で九条はもはや法として機能していない。これは、立憲国家の憲法が「最高法規」としての規範性を失ってしまったということなのです。

それにもかかわらず、今に至るまで九条は私にとって神聖にして不可侵なままでした。おそらく多くの日本の国民にとっても同様であったはずです。今、世界市民としての責任が問われる時代になっても、私たちはともすればそれを神聖不可侵なものとして、神棚に祭り上げておこうとします。

日本人は世界市民として平和維持活動をする意志があるのか?
憲法とは神が与えたものではなく、人間が作るものです。本来、一国の憲法とは国民の総意の表明なのです。たとえば、日本が国連の指揮する平和維持軍に参加するか否かの決断を迫られたとします。その時日本が世界の人々に向かって、日本には九条があるので参加が禁じられていると言うことは、本末転倒しています。もし、日本の国民が世界市民として平和維持軍に参加したいという意志があれば、憲法を改正すればよい。いや、改正することこそ、国民主権を標榜する立憲国家の義務なのです。

ところが、日本ではこのような簡単な論理が大新聞の論説ですら通りません。大新聞が良心的であればあるほどそうなのです。それは、いくら空洞化したとはいえ、九条の存在そのものが、軍国日本の復活を願う勢力に対する歯止めとして働いてきた事実を高く評価してきたからです。

もし九条を変えてしまったなら、日本は第二次大戦のあやまちを繰り返すのではないか。いくら目的を限定しても、いったん憲法で戦力の保持が認められれば、訳の分からぬうちに軍部が暴走し、ふたたび軍国主義に逆戻りをするのではないか。それはこの日本の現実において、ほとんど根拠のない恐れでしょう。だが、それは現実以上に現実的な力として、私たち日本の国民、そしてそれ以上に世界の人々をとらえてしまっている根源的な恐れなのです。(岩井克人「憲法九条および皇室典範改正試案」1996年(『二十一世紀の資本主義論』所収)





偽善のすすめ
柄谷)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。

むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。

浅田)理念は絶対にそのまま実現されることはないのだから、理念を語る人間は何がしか偽善的ではある…。

柄谷)しかし、偽善者は少なくとも善をめざしている…。

浅田)めざしているというか、意識はしている。

柄谷)ところが、露悪趣味の人間は何もめざしていない。

浅田)むしろ、善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思いますね。

柄谷)たとえば、日本の政治家が世界政治のなかで発言するとき、そこに出てくる理念性は非常に弱い。ホンネを言ってしまっている。実質的には日本が金を出してすべてをやっているようなことでも、ほとんど口先だけの理念でやっているほうにつねに負けてしまう。日本の国内ではホンネを言って通るかもしれないけれど、世界のレヴェルでは、理念的にやらないかぎり、単に請求書の尻拭いをする成金というだけで、何も考えていないバカ扱いにされるに決っていますよ。

浅田)そのとき日本人がもてる普遍的理念というのは、結局は平和主義しかないと思いますね。(……)

世界史的理念という偽善/リアル・ポリティクスという露悪
柄谷)憲法第九条は、日本人がもっている唯一の理念です。しかも、もっともポストモダンである。これを言っておけば、議論において絶対に負けないと思う。むろん実際的にやることは別だとしても、その前にまず理念を言わなければいけない。自衛隊の問題でも、日本は奇妙に正直になってしまう。自衛隊があるから実は憲法九条はないに等しいのだとか、そんなことは言ってはいけない。あくまで憲法九条を保持するが、それは自衛隊をもつことと矛盾しない、と言えばよい。それで文句を言う者はいないはずです。アメリカだって、今までまったく無視してきた国連の理念などを突然振りかざしてくる。それが通用するのなら、何だって通用しますよ。ところが、日本では、憲法はアメリカに無理やり押しつけられたものだから、われわれもしようがなく守っているだけだとか、弁解までしてしまう(笑)。これでは、アジアでやっていけるわけがないでしょう。アメリカ人は納得するかもしれないけれど。

浅田)実際、アメリカに現行憲法を押しつけられたにせよ、日本国民がそれをずっとわがものとしてきたことは事実なんで、これこそわれわれの憲法だといってまことしやかに大見栄を切ればいいわけですよ。それがもっとも先端的な世界史的理念であることはだれにも疑い得ないんだから。

柄谷)ヘーゲルではないけれど、やはり「理性の狡知」というのがありますよ。アメリカは、日本の憲法に第九条のようなことを書き込んでしまった。

浅田)あれは実は大失敗だった。

柄谷)日本に世界史的理念性を与えてしまったわけです(笑)。ヨーロッパのライプニッツ・カント以来の理念が憲法に書き込まれたのは、日本だけです。だから、これこそヨーロッパ精神の具現であるということになる。(……)

柄谷)日本人は異常なほどに偽善を嫌がる。その感情は本来、中国人に対して、いわば「漢意=からごごろ」に対してもっていたものです。中国人は偽善的だというのは、中国人は原理で行くという意味でしょう。中国人はつねに理念を掲げ、実際には違うことをやっている。それがいやだ、悪いままでも正直であるほうがいいというのが、本居宣長の言う「大和心」ですね。それが漱石の言った露悪趣味です。日本にはリアル・ポリティクスという言い方をする人たちがいるけれども、あの人たちも露悪趣味に近い。世界史においては、どこも理念なしにはやっていませんよ。(……)

ホンネ一重構造の日本
浅田)日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。

柄谷)偽善には、少なくとも向上心がある。しかし、人間はどうせこんなものだからと認めてしまったら、そこから否定的契機は出てこない。自由主義や共産主義という理念があれば、これではいかんという否定的契機がいつか出てくる。しかし、こんなものは理念にすぎない、すべての理念は虚偽であると言っていたのでは、否定的契機が出てこないから、いまあることの全面的な肯定しかないわけです。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』柄谷行人/浅田彰対談1993年)

永遠平和のために
戦後七◯年といわれますが、戦後という言葉を第二次大戦後という意味で使っているのは、たぶん日本だけでしょう。それは、日本には戦後に新憲法があって、戦争をしないことになっているからです。憲法九条が、普遍的な意味を持っていることは確かです。それは、さかのぼればカントの『永遠平和のために』の精神を受け継ぎ、一九二八年の不戦条約の精神を受け継いでいるものです。そして、実際日本人に支持されています。

 しかし、それは人々が憲法九条について啓蒙されたからではなく、護憲運動があったからでもありません。憲法九条は、当時日本人が戦争を反省して自発的に作ったものではなく、占領軍が強制したものです。だから、保守派は日本人の自発的な憲法を作ろうといってきたわけです。しかし、強制された自発的であることとは、矛盾しないのです。たとえば、憲法ができて数年後、朝鮮戦争の際にアメリカがこの憲法を変えようとしたとき、日本人は(保守の吉田政権ですが)それに抵抗しました。その時に、日本は憲法九条を自発的に選んだといえます。
 ただ、この時期の問題は、憲法九条の解釈を変えて自衛隊を承認したことです。ある意味で、解釈改憲はこのときから始まったといえます。しかし、憲法九条自体を変えようとはしませんでした。保守派はそれを変える機会が来るのをずっと待っていたのですが、できなかった。今もできません。それは、戦後の日本人には、戦争を忌避する精神が深く根付いたからです。それは「無意識」のものです。集団的無意識ですね。これは意識的なものではないから、論理的な説得によっても、宜伝 · 煽動によっても変えることができない。そして、これは、社会状況が変わっても世代が変わっても残る。
米国人の無意譏の戦争忌避
 アメリカは日本と同じではありませんが、べトナム戦争でよく似た経験をしています。べトナム戦争以降、彼らは二度と徴兵制を採れない。それは無意譏の戦争忌避があるからです。日本の憲法九条のよに明文化はされていませんが、もし現職の大統領や大統領候補が徴兵を唱えたらどうなるか。たちまち終わりです。アメリカ政府は、べトナム戦争以降ずっとその状態が元に戻るのを待っていたはずです。

9・11の際は、これでアメリカ人も憤激して立ち上がるだろう、進んで戦争にも行くだろうと考えたでしよう。しかし、確かにそういう兆しも見えましたが、すぐに消えた。アメリカ人も、もう自由のために、などと言って戦争に行って死んだりはしないのです。今後の戦争は、傭兵のような戦争のプロ、ドローンのようなロボットが行うようになるでしょう。もはや国民は戦争には参加できないのです。これが現在の戦争の現実です。
戦争で進んで死ぬということは無理
 憲法九条が日本だけではなく、一定の独立を達成した国では、戦争で進んで死ぬということは無理だと思います。たしかに、独立を実現するまでは多くの人々は命を睹けて戦うでしょう。が、独立した後、他の国民を攻撃するような戦争には無理がある。国家がどう言おうと、人々が進んで戦争に行くことはありえない。

 現在の政権が本気で戦争をする気があるなら、たんに憲法の解釈を変えるのではなく、九条そのものを変えるべきですね。むろん、それはできない。変えようとする政権や政党のほうが壊减します。それは、戦争を拒否する無意識の「超自我」が存在するからです。憲法九条はいわば「虎の尾」です。今の政権はそれを踏んでしまったのではないですか。
一国主義でない「世界共和国」理念
ーー「戦後」を引き継ぎ、次の世界に向かう、私たちのこれからの理想はなんでしょうか。

柄谷 別に新しい理想は要りません。憲法九条を本当に実行すること、それが理想です。いうまでもないですが、現状は九条に反しています。米軍基地が各地にあり、自衛隊には莫大な国家予算がついている。憲法九条の文言を素直に読めば、こんなことがありうるわけがないのです。

 九条を文字通り実行すること、それはたんに日本人の理想ではありません。それは、カントが人類史の到達点とした「世界共和国」にいたる第一歩です。もちろん、これは日本一国ではできません。九条も、憲法前文に書かれているように、戦後に成立した国連を前提としているのであって、一国主義ではありません。

 現在、国連は機能しなくなっています。戦争を阻止する力をもたない国連を変えるためには、それぞれの国での対抗運動が必要です。たとえば、日本が今後憲法九条を実行するということを、国連で宣言するだけで、状況は決定的に変わります。(柄谷行人インタビュー「戦後七〇年 憲法九条を本当に実行する」 2015年8月 15日 朝日新聞朝刊)
世界同時革命
各地の運動が国連を介することによって連動する。たとえば、日本の中で、憲法九条を実現し、軍備を放棄するように運動するとします。そして、その決定を国連で公表する。〔中略〕そうなると、国連も変わり、各国もそれによって変わる。というふうに、一国内の対抗運動が、他の国の対抗運動から、孤立・分断させられることなしに連帯することができる。僕が「世界同時革命」というのは、そういうイメージです。(柄谷行人『「世界史の構造」を読む』2011年)




…………


実は次の発言を主にして志位和夫という人物のダメさ加減を記そうと思ったのだが、長くなってしまった。


志位和夫‏ @shiikazuo「IMF 日本2030年までに消費税15%に引き上げるべき」 こんなとんでもない内政干渉を言われて、はいはいと聞くつもりか。冗談じゃない。消費税は5%に下げること、税金は富裕層・大企業からちゃんととることこそ、今必要です。https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/000170090.html(2019年11月26日)


ーー彼はパブリックに、あるいは未来の他者に向けて語っているようにはわたくしにはまったく思えない。

世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してもそうすることである。(柄谷、トラクリ)

たとえば20年後の未来の他者、たとえば今年生まれる赤子の20年後に向けて語るとは、まずは次の現実を睨んで発言することである、とわたくしは考えている。





20年後には年金支給年齢を70歳以上にしたって現役世代が(現在のとても低い国民負担比率のままでは)とても賄いきれる年齢構成比ではない。負担増福祉減は避けられないのが日本の現実である。

(2000万〜3000万人単位の移民政策があれば別かも知れない。実際、国連は既に20年ほど前、日本に3000万人ほどの移民のすすめをしている。上の表の「70歳以上/20〜69歳」の2040年の数字の20〜69歳人口6620万人に3000万人プラスしたら、高齢者1人を支える現役世代は3人程度になるよ、75歳まで働きたくなかったら3000万人ぐらい入れることだな、中東の大きな火種のひとつクルド民族は3000万人ほどいるらしいから、そっくり来てもらったらどうだろ、懇願してさ。いやあ実に美人揃いで、しかもムラ社会日本が変わる契機となって一石五鳥効果ぐらいはあるよ)







話を戻せば、行政・官僚側からは75歳以上から年金支給などという一見非現実的な案さえ出されているが、75歳にしたって2000年代半ばの構成比率(借金を積み重ねてなんとか賄ってきた比率)である。







この現実にたいして消費税減のかわりに金持ち税、大企業税を増やせばなんとかなるなどとは、あまりにも未来の他者に対して無責任である。消費税に限らない。現在の国民負担率では、国家債務は雪だるまに増えていかざるを得ない。

公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである(ジャック・アタリ『国家債務危機』2011年 )

わたくしには、志位界隈は 「財政的幼児虐待者」にみえて仕方がないのである。

「財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」とは、ボストン大学経済学教授ローレンス・コトリコフ Laurence Kotlikoff の造りだした表現で、 現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いることを言う。

つまり今掲げたジャック・アタリや次の池尾和人氏が言っているような内実である。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(池尾和人「経済再生 の鍵は不確実性の解消」2011)

ーーさあ消費税増反対派の「正義の味方」のみなさん、ここでわたくしが示した財政的幼児虐待者という観点を是非「相対化」するために反論して頂きたいものである。おそらく未来の他者への虐待者であることはオキライでしょうから。

わたくしは「挙国一致」という言葉は嫌いだが、せめて日本の全政党は、今後は大幅な負担増福祉減は避けがたいという前提をまず最低限受け入れて政局争いをすべきではないかと考えている。


長くなってしまったので、ここではもういくらかの図表のみ掲げる。志位ムラ界隈の繰り言、生産年齢人口1パーセントずつ減っていく国での2パーセント強の持続的経済成長が可能という夢を嘲弄する図表はこの際、割愛させて頂く。