現代ラカン派には「一般化倒錯」と「一般化妄想」という概念があるが、その起源となるラカン自身の発言は次のものである。
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倒錯は人間の本質である=「一般化倒錯 la perversion généralisée」
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フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的であるtoute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。
あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(Lacan, S23, 11 Mai 1976)
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人はみな妄想する=「一般化妄想 le délire généralisé 」
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フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。
Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)
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この「一般化倒錯」と「一般化妄想」という二つの概念はどちらも穴埋めを意味する。トラウマの穴に対する防衛としての穴埋めである。流派により、やれ倒錯だ、やれ妄想だと言っていた時期があったが、少なくともトラウマに対する防衛という観点では同一の意味である。
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穴と穴埋め
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我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが穴=トラウマを為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
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私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
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例えば倒錯については、ラカン自身がこう言っている。
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倒錯者は、大他者の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)
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ここでの大他者には身体という意味もあるので注意しなければならない。
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大他者は身体である! L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
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身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
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妄想についての穴埋めという表現は、ラカン自身にはない。だがもともとフロイトの妄想の定義は回復の試みである。
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妄想形成=回復の試み
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病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)
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何に対する回復の試みか? くり返せば、現実界というトラウマに対する回復の試み=防衛である。
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我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique, 1993)
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「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](Miller、Vie de Lacan, 17/03/2010 )
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穴はなぜ発生するのか。原抑圧のせいである。
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欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
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原抑圧とは固着のことである。
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ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍(夢の臍)であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
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そしてこの固着があなたの身体に穴を掘る。
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ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)
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以下、「père-version」について付記しておこう。
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「père-version」(父の版の倒錯)
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倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
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…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼ばれうる。(コレット・ソレール Colette Soler、Lacan, L'inconscient Réinventé, 2009)
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倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、いわゆる象徴秩序が望むような場には決して収まらないという意味で。
そしてこの理由で、後期ラカンは「父性隠喩 la métaphore paternelle」(父の名の隠喩)について皮肉を言い得た。彼は父性隠喩もまた「一つの倒錯 une perversion」だと言った。彼はそれを 《父のヴァージョン père-version》と書いた。père-version とは、《父に向かう動きmouvement vers le père》の版という意味である。(ジャック=アラン・ミレール L'Autre sans Autre, 2013)
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要するにこの「父の版の倒錯」の観点からは、大他者を信じる者、既成の秩序を信じる者、一神教の神を信じる者等もみな倒錯者である。むしろ彼らこそ「重症の倒錯者」と言いうる。学者共同体に安住している精神分析研究者も重度倒錯者である。
なお固着は、フロイトにおいてはリビドーの固着(欲動の固着)だが、現代ラカン派は享楽の固着という表現を好んで使う。これは両方ともトラウマへの固着という意味を持っている。次の引用群は「人はみな病気である」でも掲げたが確認の意味で再掲しておこう。
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以上、これが現代ラカン臨床主流派の基本的思考であり、フロイト観点からもじつに正当的な捉え方である。
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