2020年2月14日金曜日

神の穴の穴埋め信者


ロラン・バルトは1973年2月1日に上梓された書で、アンゲルス・シレジウスを引きつつこう記している。

私が神を見ている眼は、神が私を見ている眼と同じである
テクストの舞台には、客席との間の柵がない。テクストの背後に、能動的な者(作者)もいない。テクストの前に、受動的な者(読者)もいない。主体も、対象もない。テクストは文法的な態度を失わせる。それは、ある驚くべき著述家(アンゲルス・シレジウス)の語っているのと区別できない眼だ。《私が神を見ている眼は、神が私を見ている眼と同じである。》

Sur la scène du texte, pas de rampe : il n'y a pas derrière le texte quelqu'un d'actif (l'écrivain) et devant lui quelqu'un de pas-sif (le lecteur) ; il n'y a pas un sujet et un objet. Le texte périme les attitudes grammaticales : il est l'œil indifférencié dont parle un auteur excessif (Angelus Silesius) : « L'œil par où je vois Dieu est le même œil par où il me voit. »(ロラン・バルト『テキストの快楽』Le plaisir du texte 、01/02/1973)


ラカンはこの1ヶ月後のセミネールで、同じアンゲルス・シレジウスに触れつつこう言っている(当時、バルトとラカンは頻繁に会っていた)。

アンゲルス・シレジウスの倒錯的享楽
例えば、アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius 。彼は自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同している confondre son œil contemplatif avec l'œil dont Dieu le regarde。そこには、倒錯的享楽 la jouissance perverse があるといわざるをえない。(ラカン S.20, 20 Février 1973)


ところで最近のローマ法王日本訪問をめぐってこんな記事に出会った。

神に見つめてもらうのが祈り
東京での「青年との集い」で教皇は、「ある思慮深い霊的指導者」の言葉だと言ってこう語りました。祈るとは、神の前に「ただ」身を置いていること」そして「神に見つめてもらうこと」だと。

事実、来日中最も心をゆさぶられたのは、教皇の祈る姿でした。あの時、教皇を見ながら、自分もまた、神に見つめられていたからです。(若松英輔「フランシスコ教皇の言葉に学ぶ」2019年2月2日)

とても興味深い発言である(わたくしはカトリックにまったく疎いことを先に白状しておかねばならない。純粋に構造的関心から今こう記している)。

ここでの問いは、この「神に見つめてもらうことが祈り」は倒錯的享楽だろうか、というものである。

ラカンが倒錯をめぐる発言をいくらか拾おう。

倒錯の構造
私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想の裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、自分を対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S11、13 Mai 1964)

倒錯の構造は「幻想の裏返しの効果」とある。幻想の式は「$ ◊ a」 であり、通常、倒錯の式は「a ◊ $」とされる。

だが他にもこうある。

大他者の享楽の道具・大他者の穴の穴埋め
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン「主体の転覆」E823、1960年)
倒錯者は、大他者の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)

大他者の穴はラカンマテームではȺである。ここからPaul Verhaeghe 2004は、倒錯の構造を「a ◊ Ⱥ」のほうが相応しいとしている。

少なくとも冒頭に示したアンゲルス・シレジウスの倒錯の構造は「a ◊ Ⱥ」である。aの宛先は主体$ ではなく神Aなのだから。

そして大他者あるいは神には穴Ⱥが開いているというのは、1959年4月8日、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と宣言した後のラカンの最も基本テーゼであり、これはニーチェの「神の死」にただちに繋がる。

さてここで、フランシスコ教皇の言葉ーー《祈るとは、神の前に「ただ」身を置いていること」そして「神に見つめてもらうこと」》に戻ろう。

祈る者aは神Ⱥの前に身を置いて、倒錯的享楽に耽っているのだろうか? アンゲルス・シレジウス曰くの《私が神を見ている眼は、神が私を見ている眼と同じであるL'œil par où je vois Dieu est le même œil par où il me voit.》のようにして。すなわち「a ◊ Ⱥ」という倒錯の構造の下、大他者の享楽の道具aとなっているのだろうか。

この穴埋めaとは、ラカンの表現ではコルク栓bouchonであり、トーラス円図の片割れで示せば次のようになる。




だが神の穴はコルク栓程度ではなかなか埋められず、神の怒りがシャンパンの泡のように噴き上がるのは、歴史的にみても証明されている。「全人類に愛を!」などと仰っておられるコルク栓信者aがときにひどく荒れ狂うのは、神の怒りを具現化サセテイルセイデセウ・・・

ところで、この大他者の享楽の道具とは、発達段階論的には必ず次の様相をもつのである。

倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。倒錯者はこの大他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせる。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic, Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe, 2010)

ーーいやあ、これではあの信者たちは神に対して実にシツレイな連中だということになる。神を自分の享楽に都合のよい規則に従わせるなんて。

わたくしはあれら敬スベキ信者の方々を軽蔑したくない。せめて彼らは「神を愛することによって愛されたい」程度なんだろうと思いたい。

愛することは、本質的に、愛されたいことである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)


あるいは愛されることを願う、ごく標準的な女性的ナルシシストだと。

愛はその本質においてナルシシズム的である。l'amour dans son essence est narcissique (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)

以上、カトリック信者の方々に対する苦心の救済的思考であり、いささか論理的破綻があるのをおそれるが、オ許シネガイタイ・・・



いくらか論理的破綻がありうるのは、頭の片隅にあるーー信者のみなさんからはきっとアタマがおかしくみえるだろうーーラカンの次のような発言を可能なかぎり追い払い、敬愛すべきアンゲルス・シレジウスと教皇フランシスコの言葉に従おうとしたためであり、これもカトリック信者の方々への敬意からデス・・・

一般的には神と呼ばれるもの……それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970)
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)
問題となっている女というものは神の別の名である。その理由で、女というものは存在しないのである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas (ラカン、S23、18 Novembre 1975)




最後にアタマのおかしいラカンと偉大なる法王のあいだの橋渡しとして愛すべきシモーヌ・ヴェイユの言葉を挙げておきます。

空虚は全き充溢以上の充溢である vide est plus plein que tous les pleins。空虚にまで達するなら人は救われる。なぜなら神がその空虚を埋めてくれるから car Dieu comble le vide。(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵 』)

信者のみなさん、当面この程度で妥協されてはいかがでしょうか?


そしてこの空虚≒穴こそ、前回示した信者の方々の「欲望の原因」だと。

対象aは穴である。l'objet(a) est le trou  (ラカン, S16, 27 Novembre 1968)






なお大江はあのヴェイユに依拠しつつ、彼のテーゼ「魂のことをする」あるいは「信仰のない者の祈り」の一環として、小説のなかではありながら、次のように記しています。

なぜ、「中心の空洞」に向けて祈らずにいられるんだろう?(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」)


ここで告白させていただきますが、蚊居肢子は14歳のとき以来、常に中心の空洞に祈りを捧げ、魂のことをしてきました。




享楽の対象は…フロイトのモノ La Chose(das Ding)である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970、摘要)
モノ=享楽の空胞  [La Chose=vacuole de la jouissance] (Lacan, S16, 12 Mars 1969、摘要)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)