2020年2月13日木曜日

医者の職業病としての「主人」

医者の職業病とは、医者が主人=支配者のポジションに置かれることである。


医者の言説
Jean Clavreulの研究によれば、医者は主人のシニフィアンS1として機能する。彼の主体$は、抑圧された真理のポジションにある。患者S2は知識の対象に還元される。この言説の生産物は、喪われた対象aである。すなわち、この言説にあるかぎり、医者は彼の欲望の原因に気づかない。(ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe, FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN’S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES, 1995)






続けてバーハウによるラカンの四つの言説理論注釈のひとつを掲げよう。


今日の主要な話題はヒステリーなので、ヒステリーの主体を吟味してみましょう。もちろん彼もしくは彼女はコンサルティングルームにやって来ることができます、典型的なヒステリーの言説で($→S1)。その言説だと他者は主人のポジションS1をとることを余儀なくされます。そして知識を垂れ流して去勢されることに終わります。



他方、同じヒステリーの主体が主人の言説をもってその場面に現われることもあります。それは格別異例のことではありません。この場合、患者は彼もしくは彼女自身を主人のシニフィアンS1としての症状と同一化しています。他者はそのシニフィアンを支えるものとして機能することになります。すなわち主人のシニフィアンについての知識を持っているものと想定されるわけです。「わたしは産後うつ病になっています。わたしは産後うつ病なんですの。先生はそれについて知っている(S2)専門家ですわね。さあどうぞ! わたしを治してください。先生がしたい何でもいいです。でもわたしは主体としてのゲーム(ヒステリー の言説:$→S1)に入り込む気はありませんからその限りで。」



三番目に、同じヒステリーの主体は大学人の言説(知の言説)でやってくることがあります。彼女はすくなからぬ知識を持ってわたしたちを印象づけます。その知識をもって彼女は他者を強制的に沈黙した対象に陥れます(S2→a)。さらにそのことによって彼女は、真実のポジションにおかれた隠された主人S1を見つめることを避けようとします。



このようにヒステリー者をヒステリーの言説にのみ還元するのは間違っています。これはすべての言説に言えます。「真実は半分しかいえない le mi-dire de la vérité」のですから、車輪は回り続けています。セミネールアンコールの第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から$ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ、と。その考え方とともに、あとはよろしく!(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES, 1995)









ポール・バーハウのとてもすぐれた注釈だが、基本的には医者はバーハウが最初に指摘する主人のポジションに置かれる。





これはどんな医者でも基本的にはそうであり、くりかえせば彼らの職業病である。

人はある社会的ポジションに置かれれば否が応でももそうなるーー《彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es》(マルクス『資本論』第1巻、1867年)

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』第一巻「第一版序」1867年)


ラカン派の問いは臨床家はここからどうやって逃れて分析の言説に移行するかということである。だがフロイト派の分析家はこれを消化していない人が殆どで、主人のままであることが多いように見える。ヘボラカン派でもそうなのだからフロイト派がそうであってもやむ得ない。

だが本来、すぐれた精神科医は、たとえば次のような姿勢をもたなければならない筈である。

私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。

患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。

精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。

実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousなひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)

しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。

以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(中井久夫『治療文化論』1990年)


………

ラカンの言説理論とは、あらゆる「言説=社会的結びつき」に応用できる。

ひとつ例を挙げよう。カトリック信者は、患者の言説と同様に基本的にヒステリーの言説である(もっと深いところでは倒錯の構造があるがここでは割愛)。




この構造をとったままだと自らの欲望の原因に気づかない。「なぜ私は神を愛するのか」という真の問いを隠蔽したまま人生を送ることになる。



最後に四つの言説のそれぞれの底部にある基礎構造の読み方を付記しておこう。



話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Serge Lesourd, Comment taire le sujet? , 2006)