2020年2月13日木曜日

司祭と精神科医の臭い


いやあ臭うんだよ、あの連中は。
少しぐらいアホなこと言ってても通常はやり過ごすんだがな。
悪臭には我慢がならないからな、
健康のためにも嘲弄したくなるんだよ

司祭と精神科医の臭い
二十世紀は、そのさまざまな混乱の果てに、結局は、精神科医を患者にひどく近寄せた。このことだけは、言いうるだろう。(…)

おそらく、新しい問題は、精神科医と患者の距離の--遠さでなくーー近さから発生するであろう。いや、現に発生しているといってもよいであろう。"司祭"を越えてほとんど"万能者" "全知者" として患者に臨まんとする医師の内なる誘惑が(実は医療の技術的未成熟による面が大きいであろうけれども)、今日ほどたやすく診察室で実現しうるときはおそらくない。精神科医は、かつて司牧者が内面の闘いを戦ったにも似た内的誘惑に直面している(しかし、それは同時に"よるべなき救済者" をつくりだしている)。精神科医が、神の消滅しつつある時代に司祭あるいは神にとって代わろうとするのか。この誘惑の禁欲において医師としての同一性を保持しつつ患者に対しつづけうるのか。これはおそらく西欧精神医学の問題であるとともに、その枠を越えた現代の問題、特に日本(とあるいはアメリカ)の問題であろう。(中井久夫『分裂病と人類』第3章「「西欧精神医学背景史」1982年)


むかしツイッターで自治医大だったかの若い精神科医の臭いを
クンクン嗅いでやったらヒステリー起こしちゃったけどさ
そしたらその大学に出入りしている医学系美熟女編集者から
彼はコウモリくんって渾名があるって教えてもらったよ



今みたら2013年だな、とってもウマイ比喩だよ、これ。

最近のように薬物療法やってる精神科医はそれほど臭わないがね。

現在の米国の有様を見れば、精神病の精神療法は、医師の手を離れて看護師、臨床心理士の手に移り、医師はもっぱら薬物療法を行っている。わが国もその跡を追うかもしれない。すでに精神療法を学ぼうという人たちの多くは、医師よりも臨床心理士ではないだろうか。(中井久夫「統合失調症の精神療法」1989年)


でもやっぱり少し臭うヤツが多いよ

権威的地位を求めての職業選択
そもそも看護は医学に比してきわめて安定した基礎の上に立つものである。医学が真に治療できる疾患は今日もなお多いとはいえない。しかし、過去も現在も、いかに重病者、垂死の人といえども、原理的に看護しえない病者はいない。このことは医者のみならず看護者によっても十分注目を受けなかった事実である。この安定性は、むろん苦悩を伴わないものではなかった。それゆえにこそ、キリスト教が病者に接することに宗教的行為としての積極的価値を認めるまで、西欧において看護の概念も行為も成立しえなかったのであろう。また多くの看護者はおそらく倫理的動機によってその職を選ぶ。これは医師の多くがその時代によって人文主義者の必須教養として医学を学んだり、 科学者(ひょっとすると哲学者あるいは思想家)たらんとして医師の道を選んだのと対照的であった。階級上昇をめざしたり、 権威的地位を求めての職業選択も医師のものであった(今日のイギリスの精神科看護者の大多数がクェーカー教徒であることをここでも想起されたい)。テューク家の moral treatment が、精神病院改革をめざした医師とは対照的に、個人の生涯を越えて持続的たりえたことは、彼らの敢為が本質的に看護に属したからであり、十九世紀中葉のコノリーの"非拘束"も、短命に終わったとはいえ、看護という原理的に安定した基盤に立ってのことであった。

今日なお医師すら踏み込むをためらうフランスの不潔病棟に立ち入るのは、誰よりもまずカトリックの看護尼である。(中井久夫『分裂病と人類』第3章「「西欧精神医学背景史」1982年)


キリスト教徒のなかにもとってもマトモな人たちがいるよ
それを見分けるにはこの看護マインドがあるかどうかだな
ニーチェもアンチクリストで同じこと言っている
日本でいったら神谷美恵子とか須賀敦子みたいな存在だな

辺見庸みたいにブンヤ稼業やめて山谷で生活してみろよ
なんてことは言わないがね、
近場でやることはありそうなもんだけどな
甘っちょろいこと連発してる慶應の文学教師
カトリック信者ドツボのアイツにも血が騒ぐな
あの骨抜き小林秀雄評論やってるヤツさ

ツイッターで神への愛やらなんやらと騒いでる連中は全くダメだね
まずツイッター社交界に背を向ける資質がないとな

ま、でもいいねえ、君たちは。
鼻がとってもニブそうで。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』)