同一化とは厳密に言おうとするととかなり難しいのだけど、かねてから語られているのは、想像的同一化と象徴的同一化で、フロイト用語なら「理想自我との同一化」と「自我理想との同一化」。ラカンマテームならi(a) との同一化が想像的同一化、I(A)との同一化が象徴的同一化。
ほんとはそれだけじゃなくて、「S(Ⱥ)との同一化」があってこれがリアルな同一化(現実界的同一化)なのだけど、これが一番難しい。S(Ⱥ)は享楽の固着(サントーム)のマテームであると同時に超自我(母なる超自我)のマテームでもあって、ようするにS(Ⱥ)との同一化は「超自我との同一化」なんだけど、ラカン派でもだれもこれを明瞭に記述している人にいまだ行き当たったことがない。そもそも日本では精神分析プロパどころでも、いまだ超自我と自我理想の混同がある。
ま、ここではテキトーに記述しておけば、ある時期までのラカンは同一化を「疎外aliénation」と呼んだけれど、そうであっても同一化とは人間のアイデンティティを作るものであり避けることはできない。もし同一化がなければ、主体とは空虚・空箱、身体から湧き起こる欲動に翻弄される「無頭の主体sujet acéphale」にすぎない。
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明白なのは、同一化はアイデンティティのなかに結晶化されたものだということだ。il est clair que l'identification, c'est ce qui se cristallise dans une identité. (ラカン、S24, 16 Novembre 1976)
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ジャック=アラン・ミレール等のいくつかの注釈を挙げておこう。
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理想自我=想像的同一化、自我理想=象徴的同一化
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理想自我との同一化はイマジネールな同一化(想像的同一化)である。
l'identification du moi idéal, c'est-à-dire l'identification comme imaginaire.
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「自我理想との同一化」と「理想自我との同一化」の相違は、「構成する同一化」と「構成された同一化」の相違である。Cette distinction de l'Idéal du moi et du moi idéal, en tant qu'elle distingue l'identification constituante et l'identification constituée,
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象徴的自我理想は想像界の限界の一種として現れる。C'est en quoi l'Idéal du moi symbolique apparaît alors comme une sorte de limite de l'imaginaire,(JACQUES-ALAIN MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 1986 - 1987)
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このミレールに触れつつ、初期ジジェクは次のように記している(ジジェクは当時ミレール のセミネールの熱心な聴講者である)。
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想像的同一化と象徴的同一化とのあいだの関係ーー理想自我Idealichと自我理想Ich-Idealとのあいだの関係ーーは、ジャック=アラン・ミレール によって「構成された同一化」と「構成する同一化」の差異とされる。
簡単に言えば、想像的同一化とは、われわれが自身にとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。
象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、「愛するに値するように見える」ような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)
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「簡単に言えば」とあるように、想像的同一化と象徴的同一化でもこれだけじゃないがまずはこれを最低限処理すべき。
一例だけ挙げよう。一神教的神への愛、神との同一化は象徴的同一化であろうか、想像的同一化であろうか。これは言うまでもないだろうから言わないでおくよ。
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理想自我との同一化と自我理想の同一化は前者が先行してあるにもかかわらず、次のような混淆した機制をもつ。
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一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投射 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)
注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投射を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方で理想自我は避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「新しい形式」nouvelle forme de son idéal du moiを提供すると(セミネール1)。 (ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness、2007)
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たとえば自我理想としての父との同一化をしていた人物が、後年の人生で教師に同一化すれば、理想自我も作り変えられる。さらにその後の人生で種々の同一化の対象があれば、同様の現象が起こりうる。作家に同一化してる人もあるだろうし、小説や映画の登場人物に同一化して、たとえば愛の人生を送ろうとしてる人もいるだろう。でも神でも作家でもフィクションの登場人物でも同一化するのはスキにしたらいいけど、千葉氏が言っているように、距離を取らないとな。それがないと厄介なことが起こりがちだよ。
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同一化というのは次のようなことでも起こる。
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(自我が同一化する際の或る場合)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の「たった一つの徴 einzigen Zug 」(唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。…そして共感は同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。
…同一化は対象への最も原初的感情結合である Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist。…同一化は退行の道 regressivem Wege を辿り、自我に対象に取り入れIntrojektion des Objektsをすることにより、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代理物になる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)
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「共感はたった一つの徴との同一化によって生まれる」としたら、たとえば愛だってそうでありうる。つまりたった一つの徴との同一化によって愛は生まれうる。
この徴について、フロイトが例に挙げているのは咳の仕方とかRの発音の仕方。
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2020年2月5日水曜日
同一化を直視すること
この千葉雅也氏のツイートはとってもいいんじゃないかな。