2020年2月6日木曜日

愛は嘘

フロイトラカンにおける「愛は嘘」文献をいくらか列挙するが、最初にこう言っておこう、愛は嘘でも愛は大切であると。



愛は嘘
症状は現実界についての嘘である。症状は、性関係はないという現実界についての特化した嘘である。Le symptôme  est un mensonge sur le réel. Le symptôme est un mensonge sur le réel parce qu'il est spécialement un mensonge sur ce réel que le rapport sexuel n'existe pas. (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses Comités d'éthique, 18/12/96)
愛の結びつき liens d'amour を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。……「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」という事実、これは(症状としての愛の根にある)リアルな条件である。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
ラカン曰く、《愛を語ること自体が享楽である Parler d'amour est en soi une jouissance》(S20, 13 Mars 1973)。しかし、愛の言葉 la parole d'amour はけっして真理の言葉ではない。パートナーについて語っているという思い込みは、実は、主体が己れの享楽との関係に満足を与えているにすぎない。ラカンはあれやこれやと言う…。結論。《愛は不可能である L'amour est impossible》。 いくつものセリエが重なってゆく。ナルシシズム、嘘吐き、錯誤、喜劇、不可能。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
唯一の真理=話す身体の享楽
真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)

すべてが仮象(見せかけsemblant)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、仮象のシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
話す身体=自ら享楽する身体=自体性愛=性関係はない
身体の実体は「自ら享楽する身体」としてのみ定義される。Substance du corps, à condition qu'elle se définisse seulement de « ce qui se jouit ».  (ラカン, S20, 19 Décembre 1972)
「自ら享楽する身体」とは、フロイトが自体性愛と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。il s'agit du corps en tant qu'il se jouit. C'est la traduction lacanienne de ce que Freud appelle l'autoérotisme. Et le dit de Lacan Il n'y a pas de rapport sexuel ne fait que répercuter ce primat de l'autoérotisme. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, - 30/03/2011)
ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール・ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


「愛は嘘」を穏やかに言えば、たとえば「愛はナルシシズム的」、あるいは「愛は転移」となる。

愛することは、本質的に、愛されたいということである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
愛はその本質においてナルシシズム的である。l'amour dans son essence est narcissique (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)
フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)
精神分析における愛は転移 transfert である。…愛はたんなる置き換え déplacement、誤謬 erreur にすぎないように見える。私がある人物を愛するのは、常に別の人物を愛しているためである。Toujours, j'aime quelqu' un parce que j'aime quelqu'un d'outre。この理由で、精神分析において愛は、模造品の刻印を押されている。精神分析は愛のデフレdévalorise l'amour を促しているようにさえ見える。すなわち愛の生の降格 dégradation de la vie amoureuseを。

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的であるl'amour est labyrinthique 。愛の道のなかで、人は途方に暮れ自らを喪う。


それにもかかわらず精神分析は愛の道を歩む。転移なき分析はない Il n'y a pas d'analyse sans transfert。…

我々はフロイトの仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移である l'amour est transfert。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。…

フロイトは見出したのである。「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択choix d'objet narcissique である。あるいは母が主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む。(ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992年)





なお、底にある原ナルシシズムは、「ヒト族のふたつの原不安」で記した内実をもっています。享楽=原ナルシシズム=自体性愛=自己身体の享楽であり、自己身体の享楽とはじつは究極的には母なる自己身体の享楽です。乳幼児期にはヒトは母の身体と自己身体を識別していないゆえの「母なる自己身体」です。


以上、シツレイしました。精神分析などに首を突っ込むとロクなことはありまんから、みなさんお気をつけを!

なお皆さんが精神分析よりはきっとお好きだろう「差異」の思想家ドゥルーズ は次のような言い方をしております。

われわれの愛には、根源的な差異 différence originelle が支配している。それは恐らく母のイマージュ image de Mère であり、女性、ヴァントゥイユ嬢にとっては父のイマージュである。しかしもっと深いところでは、根源的な差異とはわれわれの経験を越えた遠いイマージュ、われわれを超越するテーマ、一種の原型である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)


さて愛を貶めてしまったお詫びに蚊居肢散人の愛する文を貼り付けておきます。

愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮かぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テキストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持ちになればいいのだ。私は必ずしも快楽のテキストに捉えられているわけではない。それは移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落ち着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)
ひとりでいることは孤独のなかにあることとは違う。孤独という言葉は、たしかにほかに誰も一緒にいる人間がいなくとも、自分を相手としている状態を語るものとしたい。ひとりでいようが、それともほかの人間と一緒にいようが、自分を相手としていない時間、「誰かの不在が意識される」としても、それがほかの誰かというよりも自分自身の不在であるような瞬間を自己喪失と呼びたい(その逆に、愛とは、ほかの誰かがいるのに、まるでいないような意識が生じる場合だ)。孤独のなかにあること、それは他者がそこに、わたしの内部にいるという確実さの体験である。そのほかに孤立ということがある。この場合は他者も自己も不在なのだ。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』)
創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。(中井久夫「創造と癒し序説」)


と引用すると、次のように引用したくなる悪癖があるのが「彼」です。とはいえ、人は常にパララクスが必要です。

愛は喜劇
器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心 libidinöse Interesse を自分の愛の対象 Liebesobjekten から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。

このような事実が月並みだからといって、これをリビドー 理論 Libidotheorie の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー 備給Libidobesetzungenを彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと。

W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我の関心 Libido und Ichinteresse とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)



と引用したら芋蔓式にまたまたフロイト文を想い起こしました。これは直接的には愛の話ではありませんが、実に正当的見解であり、愛するときも夏服だけでなく冬服を準備しておかねばなりません。

夏服と冬服
今日の教育に向けられなければならない非難は、セクシャリティがその後の人生において演ずるはずの役割を若い人に隠しておくということだけではない。そのほかにも今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃欲動の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)


というわけで最後に、我が日本の真の愛の作家、あのあまりにも衝撃的な『楢山節考』を書いた深沢七郎、そしてあの愛ばかり書き続けた坂口安吾の文を掲げておきます。

悪魔だ、熱病だ!

愛は悪魔だ。熱病という名の精神病だ。自分のつごうでふりまいておきながら、見返りだけはがっちり求めてくる得手勝手なヤツだ。愛するというのは悪いことだ。/異性愛だけではない。親子の愛、兄弟愛、愛と名のつくものはみな片輪で、はためいわくな感情だからきらいだ。わたしが家族を持たないのは、きらいな愛にとらわれたくないためだ。(深沢七郎ーー鴎外の娘森茉莉のスクラップ帖にはさまっていた文)
亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。…惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾『金銭無情』1947年)





いやいやここで引用をとめてこの記事を終える訳にはいきません。

(未熟児で生まれた赤ん坊は)一歳までは、他の動物の胎児なみの保護が必要な状態であり、一歳までの成長があれほども急なのである。スイスの動物学者アドルフ・ポルトマンは、頭が大きいから参道通過のために生理的早産になったのだというが、それは結果論だと私は思う。小さく産んだから子宮の制限なしに脳が大きく育ったということではないか。それでもヒトの赤ん坊の知能はチンパンジーの赤ん坊に劣る。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)


他の動物の胎児なみの保護が必要な状態で生まれたヒト族は、寄る辺なさと依存性の存在であり、この原初の状態は、われわれ皆に身体の記憶として刻印されています。ようするに人は愛の見返りを求める宿命にあるのです。愛することによって愛されたいのです。

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづけ寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性Abhängigkeitである。人間の子宮内生活 Die Intrauterinexistenz des Menschen は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界realen Außenwelt の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


この寄る辺なき状態は後の人生でも大きな天災に遭遇したりすれば必ず訪れます。すると原初の愛されたいという要求がやみがたく生まれます。

経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。⋯⋯(そして)現在に寄る辺なき状況が起こったとき、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)

ーーフロイトにとって母を見失なうという状況は原外傷的状況です。

上の状況は、たとえば最近でも阪神大震災や東日本震災に遭遇した人なら如実に体感しているはずです。

天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。(……)

このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)


みなさん、愛をバカにするヤツをバカにしましょう。ただし愛の価値を真に知るためには、巷の安っぽい愛をバカにしてからでなければなりません。

自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう!Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」1883年)
すべて愛と呼ばれるもの Was Alles Liebe genannt wird

所有欲(貪欲)と愛 Habsucht und Liebe、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じを我々にあたえることだろう! ―だがしかしそれらは同一の衝動 Trieb なのによびかたが二様になっているのかもしれぬ。つまり一方のは、すでに所有している者ーーこの衝動がどうやら鎮まって今や自分の「所有物 Habe」が気がかりになっている者ーーの立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが「善」として賛美された呼び名であるかもしれない。我々の隣人愛ーーそれは新しい所有権への衝迫 Drang nach neuem Eigenthum ではないか? 知への愛、真理への愛 Liebe zum Wissen, zur Wahrheit も、同様そうでないのか? およそ目新しいものごとへのあの衝迫 Drang の一切が、そうでないのか? ……
我々は古いもの、安全に所有しているものにしだいに退屈し、ふたたび手を伸ばすようになる。最も美しい風景でさえも三カ月住めば、もはや我々の愛を確保しない。そして遠くの海辺が所有欲を刺激する。所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなるのである der Besitz wird durch das Besitzen zumeist geringer。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものをわれわれ自身のなかへ取り入れ、変化させることによって維持しようとする。所有するとは、まさにそういうことだ。

所有への衝迫 Drang nach Eigenthum としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛 Liebe der Geschlechter である。愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。…
われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーつまり性愛 Geschlechtsliebe のこういう荒々しい所有欲(貪欲)Habsucht と不正 Ungerechtigkeitが、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーという事実に、である。…

だがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継続 Fortsetzung der Liebe がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求 habsüchtige Verlange がある新しい熱望と所有欲 neuen Begierde und Habsuchtに、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの共同の高次の渇望 höheren Durste に道をゆずる、といった風の愛の継続である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか? 誰がこの愛を体験したろうか? この愛の本当の名は友情Freundschaftである。(ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)