2020年2月15日土曜日

わかったつもりになったらダメ

ときに質問を受けることがあるが、「私は教師ではない」と応答することにしている。そもそも何よりもまずこのブログの断片的記述程度でわかったつもりになったらダメだってことだな。

少しまえ三人のラカン注釈者で記したが、わたくしの基本はポール・バーハウによるフロイトラカン注釈。

人に書物や論文をすすめることを好まないが、あえてそれを犯すなら、たとえばPaul Verhaeghe とFrédéric Declercqによる"Lacan's analytic goal : Le Sinthome or the feminine way,"。もともと2002年の論だが、2016年に再提示されている。PDFで僅か21ページの小論だけれど、目の醒める記述に満ち溢れている。今まで断片的には何度も引用してきたけれど、最低限これくらいは読んでおくべきだな、もしフロイトラカン理論に少しでも関心をもつのなら(もっともバーハウは後の書でこの論文の細部に批判を加えているが)。そう、ジジェク風の哲学的対象aを信じ込まないためにも。そしてときにわたくしには寝言のようにさえみえる日本フロイトラカン派の論を信奉しないためにも。


対象a≒残存現象
In the second period of Lacan's teaching, after 1964, he systematically demonstrated the twofold character of the symptom – Real and Symbolic – , thus continuing a central theme of Freud's work.10 The reason for this is clear: traditionally, analysis tackles the Symbolic component of the symptom, but it is the Real part that endangers the effectiveness of therapy. All the well-known problems – the partial resistance of certain symptoms against analytic treatment, the symptom-relapse after a certain period, the “negative therapeutic reaction” – can be understood as expressions of the Real, i.e. the drive component of the symptom. That is why the overcoming of the repression  - the Symbolic component of the symptom – does not lead automatically to the expected results. Lacan will summarise these problems with his theory of the object a, thus echoing Freud's conclusion in Analysis Terminable and Interminable: “There are nearly always residual phenomena”.11   (Lacan's analytic goal : Le Sinthome or the feminine way, Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2002)

ほとんど常に残存現象がある
 Es gibt fast immer Resterscheinungen
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまたファルス期 phallisch-genitalen Platz にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残滓Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ジャック=アラン・ミレール 2013による同様の注釈
ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父の隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式forme linguistique において、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父の隠喩 métaphore paternelle」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残滓 restes」があるのである。その残滓が分析を終結させることを妨害する。残滓に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望にはどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013)