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2019年1月15日火曜日

三人のラカン注釈者

亀の歩み」というのは、皮肉じゃないのであって、ラカン注釈者に囚われず、フロイト・ラカンを「直接に」地道に読むのが正道だよ。

ボクはそんなことはしないというだけだな。還暦にもなった身でいまさらムリだね。そもそも2011年まではーーフロイトをいくらか読んでいたということはあるがーー、ラカンはセミネール1とエクリの掠め読みだけ。せいぜいジジェクのみのラカンだったからな。

6、7年、ラカンをいくらか読んだって、何十年も読んでいる連中にかなうわけがない。ミレールやソレールだったら60年近くだ。

ポール・バーハウ(1955年生れ)の早期の洞察(「リビドー固着」について)は、ラカン一辺倒に偏りがちな仏主流派とは異なり、フロイトをいっそう念入りに読む環境にあるだろう独仏のはざまのベルギーという土地の臨床家であることも大きく貢献しているんじゃないかな。

バーハウはまだそれなりに若いけれど、ミレールの「ふつうの精神病」概念をバカにしていて(末尾引用)、たぶん二人は仲が悪い。

ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller(1944年生れ) とコレット・ソレールColette Soler(1937年生れ)はラカンの愛弟子として、1980年に設立された「フロイト大義派(Ecole de la Cause freudienne)」の中心メンバーだったが、1998年のバルセロナでの会議で、コレット・ソレールは、三分の一以上のメンバーを引き連れて離脱している。この年の会議でミレールは、(悪)評判の高い「ふつうの精神病 psychose ordinaire」概念を提出している。だが現在は、二人ともフロイトの「固着」の人である。

ボクが精神分析に関してこのところやってるのは、基本的には、このあまり仲がよくないだろう臨床ラカン派三人を相互に補って読んだ内容ーーミレールとソレールを読んだというってもこれまた僅かだがーーを示しているだけだ。

バーハウについては、それなりに読んだが、次の四冊がベース。

1999年の『Does the Woman Exist?』、
2001年の『 BEYOND GENDER 』、
2004年の『On Being Normal and Other Disorders』、
2009年の『New studies of old villains』。


ま、ボクに言わせれば、こういった書が邦訳されてないってのが、日本のフロイト・ラカン業界の「悲劇」だな。彼の書のいくつかは韓国や中国語にも訳されてるんだがね(『Does the Woman Exist?』は、ジジェクが「奇跡的」と書評している)。

ようするに2010年過ぎになって、ようやくブルース・フィンクの1995年の啓蒙書が翻訳されて、いまでも研究者たちに珍重されている悲劇ってことだ。





大切なのは、日本ラカン業界でもまずバカにし合うことだな。そこにしか今の途轍もなく退行した日本におけるフロイト・ラカン的な精神分析的知の復活はない。

ま、ムリだと思うが。

⋯⋯⋯⋯

※付記

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・バーハウの「現勢病理」(フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」)とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病 psychose ordinaire」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis by Jonathan D. Redmond、2013)

バーハウの名が日本ではほとんど知られていないというのは、ボクに言わせればーーたぶん人によっては偏っているというのだろうがーー致命的だな。

たとえば2006年のセミネール17英訳書の解説では、彼はそれなりに名の知られているだろう並み居る注釈者たちのなかで二番目のポジションにて注釈エッセイを記している。

Jacques Lacan and the Other Side of Psychoanalysis: Reflections on Seminar XVII, sic viEditor(s): Justin Clemens, Russell Grigg(Published: May 2006)

Contributor(s): 

Jacques-Alain Miller, 
Paul Verhaeghe, 
Russell Grigg, 
Ellie Ragland, 
Dominiek Hoens, 
Mladen Dolar, 
Alenka Zupancic, 
Oliver Feltham,
Juliet Flower MacCannell, 
Dominique Hecq, 
Eric Laurent, 
Marie-Helene Brousse, 
Pierre-Gilles Gueguen, 
Geoff Boucher, 
Matthew Sharpe


⋯⋯⋯⋯

以下、冒頭近くに記した、バーハウによるミレール「ふつうの精神病」罵倒内容。

DH)精神分析理論、そして古典的形式におけるラカン理論は、神経症の理論、無意識の理論、去勢の、欲望の理論です。あるポイントでーーこれはラカン読解のある仕方で、ということですが、ときに、セミネール 17、あるいはセミネール 20 に断絶(裂け目)が位置されると読みえますーー、このポイントにて、ラカンは、古典的ラカンの出発点を変えたかもしれない、と。そして、異なった理論の選択のもと、古典的ラカンを捨て去りさえした、と。

私は、ジャック=アラン・ミレールによって広められた用語に思いを馳せています。すなわち、「ふつうの精神病」、psychose ordinaire です。これが指摘しているのは、古典的神経症ーーヒステリーと強迫神経症ーーはまだ出現しはしますが、(あなたがすでに言及したように)以前より減少した、ということです。これは別の問題にかかわるに違いありません。この論拠の流れにしたがえば、精神分析が依拠する基盤、歴史的であると同時に原則的な基盤ーー無意識の理論、欲望の理論--はもはや効力はない。このカテゴリーでは、わずかなことしかなされえない。そう人は考え得ます。というのは、主体性の新しい形式、快楽との関係性を考えるために、もはや適切ではないからです。

PV)私は異なった仕方で定式化します。ポストラカニアンは、実にこれを「ふつうの精神病」用語で理解するようになっている。私はこれを好まない。二つの理由があります。一つは、「ふつうの精神病」概念は、古典的ラカンの意味合いにおける精神病にわずかにしか関係がない。もう一つは、さらにいっそうの混乱と断絶をもたらしています。非精神分析的訓練を受けた同僚とのコミュニケーションとのあいだの混乱・断絶です。

実に全く疑いはない。私たちは、もはや単純にフロイト理論や初期のラカン理論を適用しえないことは確かです。それはまさに単純な理由からです。すなわち、神経症は異なったものになった。社会が変わったからです。アイデンティティさえ変貌した。これを私もまた確信しています。…

でもこれは次のように言うことではない。すなわち、私たちは、古典的理論に現れた、数ある決定的語彙を使い続けえない、と言うことではない。不安の理論、快の理論、欲望の理論。それはただ現在異なったふうに転調されているのです。

変わったのは、大他者なのです。私たちは、大他者への数々の変化を感知しています。…結局、フロイト理論は、ヴィクトリア朝社会の解釈です。これは過ぎ去った。私たちは、今、ポストモダン社会、新自由主義社会のなかにいます。そう、私たちの理論はその新しい社会のなかの数多くの構造を認知しています。そして、エロス、タナトス、不安、快楽、ジェンダー、去勢のような数多くの根本問題も、その社会のなかに場所を持っています。だが、もはやヴィクトリア朝にあったものではない。(An Interview With Paul Verhaeghe,2011)