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2019年1月14日月曜日

日本ラカン派の「亀の歩み」

いやきみ、種々の捉え方があってよい。真理は非全体なのだから。現在のわたくしの考え方は「女性の享楽は享楽自体のこと」等で記したことだという意味であり、それ以上ではない。

とはいえ、日本におけるほとんどすべてのラカン派プロパや批評家たちは、この観点からは核心を外している。わたくしに言わせれば、彼らは10年後か20年後にはこの観点を理解しはじめるようになるだろう、ま、彼らは亀の歩みをしているーー地道にコツコツ前進しているーーと肯定的に捉えてもよい。逆に、ラカンジャーゴンに踊るのみの阿呆鳥の集まりの可能性もあるが。


わたくしのラカンは、以前にも記したがポール・バーハウのラカンである。

最初に次の二図に出会った(参照:症状の線形展開図)。








最初からこの図を全面的に信用したわけではない。

だが現在の仏主流臨床ラカン派がごく最近になって次のように言っているのを知った(参照:固着-サントーム簡潔版)。

精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。…フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure、2011年)

ソレールの言っている「文字固着」やミレールの「欲動の固着」は、バーハウの次の文が示している意味と等価である、《後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。》(Paul Verhaeghe、BEYOND GENDER 、2001年)

ミレールはこうも言っている( 参照:S(Ⱥ)と「S2なきS1」)。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

これらはポール・バーハウが2000年前後から2000年代の前半に主張していることに、2010年代になって追いついたという理解をわたくしはしている。その具体的な内容の詳細はここでは割愛して核心だけ記すが、上に示した症状展開図における境界表象S1が、ミレールの言っている「S2なきS1(S1 sans S2)」であり、これがリビドー固着=サントームである。

(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化Verstärkungによって起こる。(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

ほかにもバーハウは次のように言っている。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)

なにはともあれ、現在の「まともな」臨床ラカン派の思考の核心はフロイトの原抑圧=固着である(参照:原抑圧・固着文献)。そして日本にまともなラカン派がいるかどうかについて、わたくしは不詳である。わたくしがいくらかみる限りでは、ほとんどの日本的ラカン派注釈者たちは「真の」原抑圧についての思考を避け続けてきたようにみえる(参照:三種類の原抑圧)。

その意味では1968年のドゥルーズのほうがはるかに「まとも」である。

フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

もっともドゥルーズには、1970年代になって《欲望機械 Les machines désirantes》なる、精神分析的には「退行思考」概念を提出してしまった「こよなき不幸」があるが。以後、彼の思考において原抑圧への言及は表面的には消えてしまう。

だがドゥルーズの精神分析的思考の核心は、1960年代の論に頻出するーーとくにプルーストの「無意識的記憶」や「レミニサンス」に準拠した《強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)》概念に他ならない。最晩年のラカン自身、レミニサンスという語を口にしている。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

見ての通り(参照)、ドゥルーズの「強制された運動」、この表現こそ原抑圧(=リビドー固着)による反復強迫の言い換えである、--《le mouvement forcé qui représente la désexualisation, c'est Thanatos ou la « compulsion»》(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー)。欲望機械概念はガタリと組んだドゥルーズの思考的退行概念、すなわちフェティッシュ的錯誤、あるいは妄想である。

人間の根源的な徴である固着(原抑圧)、あるいは去勢を認めるなら、欲望の自由な運動などある筈がないのである(参照:四種類の去勢)。仮に自由機械に見える運動でも、実はトラウマの廻りーーラカンにとってトラウマ=穴であるーー、つまり穴の廻りの循環運動に過ぎない。穴、それはフロイト・ラカンの定義においては「引力」であり、その引力に吸引されつつも斥力が働き循環運動が生じる。これがエロスとタナトスの関係である。

さて、「固着」についてわたくしには限りなく先行しているようにみえるポール・バーハウは、さらに2009年の書でこう言っている。まず簡潔なラカンの二つの文を引用してバーハウ文を引用しよう。

大他者は身体である!L'Autre, …c'est le corps ! (ラカン、S14、10 Mai 1967)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger (S23、11 Mai 1976)

享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な大他者である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の大他者、まさに同じ表現(《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係している。

我々の身体は大他者である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、大他者の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての大他者を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての大他者があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一、大他者から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。

この論証の根はフロイトに見出しうる。フロイトは母が幼児を世話するとき、どの母も子供を「誘惑する」と記述している。養育行動は常に身体の境界領域に焦点を当てる。…(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains、2009)

《母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。》(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

《身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。》(ラカン、S20、19 Décembre 1972)

ラカンはセミネールXXにて、現実界的身体を「自ら享楽する実体」としている。享楽の最初期の経験は同時に、享楽侵入の「身体の上への刻印 inscription」を意味する。…

母の介入は欠くことのできない補充である。(乾き飢えなどの不快に起因する過剰な欲動興奮としての)享楽の侵入は、子供との相互作用のなかで母によって徴づけられる。

身体から湧き起こるわれわれ自身の享楽は、楽しみうる enjoyable ものだけではない。それはまた明白に、統御する必要がある脅迫的 threatening なものである。享楽を飼い馴らす最も簡単な方法は、その脅威を他者に割り当てることである。...

フロイトは繰り返し示している。人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと。問題は、享楽の事柄において、外部の世界はほとんど母-女と同義であるということである・・・

享楽は母なる大他者のシニフィアンによって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains、2009)


この母なる大他者の徴付けが身体の出来事としてのサントームであり、反復強迫の主要な起源のひとつである。くりかえせば、現在のわたくしは「ほぼ確信的に」そのように理解をしているということ「だけ」だ。この「確信」については中井久夫のトラウマ論が大きく貢献している(参照:女性の享楽とは死の欲動のこと)。

反復強迫のララング(母の言葉)の相については、「ララング定義集」を見よ。ララングとは身体を世話するときの母の言葉である。

ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

以上

三人のラカン注釈者