いや、ボクは日本ラカン派の書は読んだことがからよく知らないよ。
尾崎行雄が、初めて新聞記者になって、福沢のところに挨拶に行った時、君は誰を目当てに書く積りかと聞かれた。勿論、天下の識者の為に説こうと思っていると答えると、福沢は、鼻をほじくりながら、自分はいつも猿に読んでもらう積りで書いている、と言ったので、尾崎は憤慨したという話がある。彼は大衆の機嫌などを取るような人ではなかったが、また侮蔑したり、皮肉を言ったりする女々しい人でもなかったであろう。恐らく彼の胸底には、啓蒙の困難についての、人に言い難い苦しさが、畳み込まれていただろう。そう想えば面白い話である。(小林秀雄「福沢諭吉」『考えるヒント』所収)
この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・バーハウの「現勢病理」(フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」)とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病 psychose ordinaire」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis by Jonathan D. Redmond、2013)
バーハウはいくらか雑なところがあるから、ミレールなどで補うこともあるってところだな。ブルース・フィンクってのは、鼻糞っていうより耳垢系だね。彼はスグレタ翻訳者にすぎないな。
そもそも日本ではほとんど知られていないバーハウに出会ったのは、中井久夫の外傷論を読むなかで、ラカン派はどんなこと言っているかと探ってみたことによる。当時(7~8年前)、トラウマを大きく取り上げていたのは、バーハウだけだったな。
中井久夫が「現勢神経症」概念に注目しているように、バーハウもラカンをフロイトの現勢神経症から読み込んでいる人物。
今日の講演を「外傷性神経症」という題にしたわけは、私はPTSDという言葉ですべてを括ろうとは思っていないからです。外傷性の障害はもっと広い。外傷性神経症はフロイトの言葉です。
医療人類学者のヤングいよれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症(現勢神経症)と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。
もっともフロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。私はとりあえずこの言葉を使う。時には外傷症候群とか外傷性障害とか、こういう形でとらえていきたいと思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002.9『徴候・記憶・外傷』所収)
ーーここではさわりしか引用しないけど、中井久夫は外傷神経症と現勢神経症をほとんど等価な概念として扱っている。
現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
で、ラカンのサントーム(原症状)の定義は次の通り。
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
ーーこの症状とは原症状(サントーム)のこと。
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un、30 mars 2011)
そして身体の出来事とはトラウマの出来事。
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2 février 2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
ーー女性の享楽とは身体の享楽のこと。
以上より、外傷神経症あるいは現勢神経症とは(基本的に)サントームと捉えうる。
だいたいフロイト・ラカンにかかわってボクの記していることは、これを繰返しているだけだな。
それに最近いくらかこっているボロメオの環だって、ベースは次の文だね(この書は、ジジェクが「奇跡的」と書評した書)。
ボロメオの環において、想像界の環は現実界の環を覆っている。象徴界の環は想像界の環を覆っている。だが象徴界自体は現実界の環に覆われている。これがラカンのトポロジー図形の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、DOES THE WOMAN EXIST? 、1999年)