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2019年1月13日日曜日

お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた

堀辰雄を青空文庫で、あいうえお順に読もうとしていた。わたくしは時に青空文庫を開いて新しく文庫に入った作品のなかで、かつて親しんだ作家のものを読んでみる習慣がある。堀辰雄もそうやって小さなエッセイに出会って、ああいいな、思春期時代のボクがいると感じ、文庫の冒頭作品から読んでみようとしたのである。四五年前だったか、この伝で安吾を全部読んだ。

堀辰雄の「あ」ではなく「「」で始まる作品のはじまりのものはほとんどすべて短い。だが二十篇目ぐらいで彼の卒業論文「芥川龍之介論」に出会って立ち止まった。ここから前に進まない。芥川の作品をいくつか読んでみる方向に向かった。たぶん、両作家ともこれから順繰りには前にすすんで全作品を読んでみるということはなさそうだが、この立ち止まりのほうが今は気に入っている。ボクのまったく知らなかったーーいや晩年の作品をいくつか読んではいたので、すこしは知っていたと言いたいところだが、あまり真剣には受け止めていなかったと白状しなくてはいけない芥川の姿をいくらか知った気分だから。

ははあ、そうなのか、ーーそう思った。ボクは芥川には親しくない。そもそも日本の小説作品を多く読んできたほうではない。彼の伝記的事実もほとんど知らなかった。

彼の實母は、彼の語るところによれは、狂人だつたといふ事である。彼の短篇「點鬼簿」(大正十五年)にはその實母の肖像が生まなましく描かれてゐる。

「點鬼簿」は彼の晩年の暗澹たる諸作品の先驅をなしたものである。彼は非常にひどい神經衰弱の中で、この作品を書いた。彼はこの作品を書きながら、幾度か、その母の「少しも生氣のない、灰色をしてゐる」顏を思ひ浮べた事であらう。彼はその頃よく、神經衰弱のひどい時なぞ、さういふ母から暗示を受けて、「僕も氣狂になるのではないかしら?」と恐怖してゐた位だつた。――彼を生んだ母が、彼の中に、何よりも先に、さういふ暗い影を投げてゐたのである。(堀辰雄『芥川龍之介論――藝術家としての彼を論ず――』1929(昭和4)年3月「東京帝国大学文学部国文学科卒業論文」)

というわけで「點鬼簿」を読んでみる。かつて読んだような気がするが、まったく忘れている。

僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。…僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。…

僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。…

僕は一夜大森の魚栄でアイスクリイムを勧められながら、露骨に実家へ逃げて来いと口説かれたことを覚えている。僕の父はこう云う時には頗る巧言令色を弄した。が、生憎その勧誘は一度も効を奏さなかった。それは僕が養家の父母を、――殊に伯母を愛していたからだった。…

僕は二十八になった時、――まだ教師をしていた時に「チチニウイン」の電報を受けとり、倉皇と鎌倉から東京へ向った。僕の父はインフルエンザの為に東京病院にはいっていた。…

僕が病院へ帰って来ると、僕の父は僕を待ち兼ねていた。のみならず二枚折の屏風の外に悉く余人を引き下らせ、僕の手を握ったり撫でたりしながら、僕の知らない昔のことを、――僕の母と結婚した当時のことを話し出した。それは僕の母と二人で箪笥を買いに出かけたとか、鮨をとって食ったとか云う、瑣末な話に過ぎなかった。しかし僕はその話のうちにいつか眶が熱くなっていた。僕の父も肉の落ちた頬にやはり涙を流していた。 

僕の父はその次の朝に余り苦しまずに死んで行った。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年)


堀辰雄の卒業論文に戻る。

彼は生れるとすぐ、母が發狂したため、本所の芥川家に養子となつた。芥川家には、養父、養母の外に、伯母が一人ゐて、それが特に彼の面倒を見た。彼は後に「家中で顏が一番私に似てゐるのもこの伯母なら、心もちの上で共通點の一番多いのもこの伯母だ。伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出來たかどうかわからない。」と言つてゐる。…

彼は彼の小説「大導寺信輔の半生」の中にかういふ少年の事を書いてゐる。「彼は全然母の乳を吸つた事のない少年だつた。母の體が弱かつたからである。彼は牛乳の外に母の乳を知らぬことを耻ぢた。これは彼の一生の祕密だつた。彼は何時からか、又どういふ論理からか、自分の意氣地のない事をその牛乳の爲と信じてゐた。もし牛乳の爲とすれば、少しでも弱みを見せたが最後、彼の友達は彼の祕密を見破つてしまふのに違ひなかつた。彼はそのためにどういふ時でも彼の友達の挑戰に應じた。恐怖や逡巡が彼を襲はない訣ではなかつた。しかし彼は何時もその度に勇敢にそれらのものを征服した。それは迷信に發したにせよ、確かにスパルタ式の訓練だつた。このスパルタ式の訓練は彼の性格へ一生消えない傷痕を殘した。」 これは彼自身の自畫像に近いものであらう。かかる自分の弱みを見せまいとする剛情さ――それは彼の性格を一生支配してゐた。僕はそこに彼の性格の最初の悲劇を見出す。…

彼は鋭い理性と共に柔かい心臟の持ち主だつた。彼の鋭い理性は、彼の中に投げ込まれたその冷たい石を愛した。そして彼の柔かい心臟は、そのために、隱された。人々は彼に鋭い理性と共に冷たい心臟を見出して、それを信じた。しかし彼は、次第に彼の理性の衰へると共に、その調和を失ひ出した。その以後の彼が悲劇的になつたのは當然である。彼の遺稿「闇中問答」の中の「お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた」 と云ふ悲劇の一つは此處にあると言はなければならなぬ。(堀辰雄『芥川龍之介論――藝術家としての彼を論ず――』1929(昭和4)年3月「東京帝国大学文学部国文学科卒業論文」)


芥川自殺2年後の堀辰雄のこの論文は、「悲劇」という言葉が頻出するように、まだ衝撃からまったく醒めていない1904年生れの堀の25歳の作品である。だが今はその話はしない。

上の文を読んだことにより、「大導寺信輔の半生」と「闇中問答」を読むことになる。

実際彼は人生を知る為に街頭の行人を眺めなかつた。寧ろ行人を眺める為に本の中の人生を知らうとした。それは或は人生を知るには迂遠の策だつたのかも知れなかつた。…

この「本から現実」へは常に信輔には真理だつた。彼は彼の半生の間に何人かの女に恋愛を感じた。けれども彼等は誰一人女の美しさを教へなかつた。少くとも本に学んだ以外の女の美しさを教へなかつた。彼は日の光を透かした耳や頬に落ちた睫毛の影をゴオテイエやバルザツクやトルストイに学んだ。女は今も信輔にはその為に美しさを伝へてゐる。若しそれ等に学ばなかつたとすれば、彼は或は女の代りに牝ばかり発見してゐたかも知れない。…………(芥川龍之介「大導寺信輔の半生」1925(大正14)年)


次の「闇中問答」のスタイルはいいな、ドストエフスキー的とでもいうべきか。

或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。
僕 それは僕の責任ではない。
或声 お前はそれでも夏目先生の弟子か?
僕 僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知つてゐるかも知れない。しかしあの気違ひじみた天才の夏目先生を知らないだらう。
僕 僕は偉大さなどを求めてゐない。欲しいのは唯平和だけだ。ワグネルの手紙を読んで見ろ。愛する妻と二三人の子供と暮らしに困らない金さへあれば、偉大な芸術などは作らずとも満足すると書いてゐる。ワグネルでさへこの通りだ。あの我の強いワグネルでさへ。(芥川龍之介「闇中問答」昭和二年、遺稿)


⋯⋯⋯⋯

メリメの自畫像とも言ふべき「エトルリアの花瓶」の主人公の性格――「彼は實に優しい、弱い心を持つてゐた。それと同時に、彼は高慢で野心家だつた。言ひ出した事は子供のやうに後へは退かなかつた。さうして不名譽な弱さと思へるものは何でも人前では隱さうと努力した。そのやうにして彼の優しい弱い心を他人から押し隱せはしたが、深く彼のうちに祕せばそれは百倍にも増して烈しくなるのである。世間には冷淡で、無感覺だと言ふ評判が立てられる。彼の苦惱は、彼が誰にも祕密を打ち明けたくないと思へば思ふだけ一層烈しいこの「エトルリアの花瓶」の主人公のそれであると言つてよい。 

佐藤春夫は、さういふ彼を窮屈なチヨツキを着てゐるやうだと批評してそれを脱ぐことを彼に勸めた。それに對して彼は「告白」といふ一文を草して答へた。その中で言ふには、「もつと己れの生活を書け、もつと大膽に告白しろ」とは屡〻諸君の勸める言葉である。自分も告白をしない訣ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の體驗の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勸めるのは僕自身を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を臆面もなしに書けと云ふのである。おまけに卷末の一覽表には主人公たる僕は勿論作中の人物の本名假名をずらりと竝べろと言ふのである。それだけは御免を蒙らざるを得ない。――さう言つて、彼は、その窮屈なチヨツキを脱ぐのを最後まで肯じなかつた。これは悲劇的な性格だ。そして、彼をしてああ云ふ最後の行動をとらずには居られなくさせたものに、彼のかういふ生れつき負はされてゐたところの氣質が加はつてゐた事は疑ひ得ないのである。…

「文藝的な餘りに文藝的な」の中には、見落してはならぬ、もう一つの重大なものがあるのである。それは森鴎外に就いて彼の書いてゐる一章である。彼は其處で、鴎外の作品に何か微妙なものの缺けてゐるのを指摘し、「畢竟森先生は僕等のやうに神經質に生れついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢に詩人よりも何か他のものだつたと云ふ結論に達した。「澀江抽齋」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。……しかし正直に白状すれは、僕はアナトオル・フランスの「ジヤン・ダアク」よりも寧ろボオドレエルの一行を殘したいと思つてゐる一人である」と書いてゐるのである。(堀辰雄『芥川龍之介論――藝術家としての彼を論ず――』1929(昭和4)年)

…………

実はすこしまえ佐藤春夫の『芥川龍之介を憶ふ』も読んでいる。この芥川自殺一年後に書かれた文もかなり気に入っている。わたくしは『田園の憂鬱』をかつて愛したので、彼の文章なら必ず読む。

芥川は自分自身に対しては仲々忠実な妥協的な所の少い人であつたが、一面には他人に対してさう傍若無人に振舞へないらしかつた。例へば芥川は谷崎に向つて、「それは佐藤の芸術はいいにはいいけれども、要するに一つ穴の笛なのだから心細い」 

と、云つたと聞いた自分が、その後の機会に芥川のその説に賛成して、「全く今のままではいけないのだ、どうかしなければ。――一つ穴の笛で」 

と、言ひ出すと、芥川は「しかし君がもし一つ穴の笛ならば、今日の文壇果して一つ穴でないものに誰があるかね」 

といふ。けれども猿又まで貸して貰ふ自分としては、どうも芥川の社交的な返事が気に入らない。かう云ふことが時々あるので、自分は芥川の言葉に表裏があるやうな気がしてその不服を谷崎によく漏らしたものだ。谷崎はすると自分をなだめて「君は偏屈な一克な所があつて、田舎者だからさう思ふのだらうが、芥川は江戸つ児で社交性があるから自然さう云ふことになるので、それは君の方が悪いんだよ」 

さう云はれて見ると自分は黙つて了ふより仕方がない。その癖どうも芥川の、谷崎の所謂都会人芥川の社交性が矢張り気に入らない。……
芥川の文章は彼の話振りの感興豊かなのに較べると、まるで光彩がない、喘えぎ〳〵で書かれてゐるやうな気がするが、その同じことが口で言はれる時には、殆ど言葉は跳梁してゐた。……
「若し僕が死んだならば、覚えて置いてくれ給へ、誄を書くのは君なのだからね」 

自分はそれに対して出来るだけ正直に自分は彼の芸術を悉く賛成することは出来ないし充分なものとは思はないけれども彼が芸術に注いだ熱情とまた何事を為さうとしたかと云ふ意向とは充分に之を了解する積りだと答へると、彼はそれで満足すると云つた。冬の夜は更けて行つて自分たちとして勢一杯な程度で感傷的になつてゐた。 

彼は非常に盛に煙草を吹かし大きな火鉢のぐるりには吸殻が林立し気が付いて見ると部屋には煙が立籠め、障子を隙けて置いた位では間に合はなかつた。煙草の箱は何度もすぐに空になつて了つた。どんなに少く見積つてもその一晩中に彼は九十本以上は吸つてゐる。自分も煙草は休みなくふかす方だが、彼のは余りに極端で、どうしても健康上有害だと思つたから自分は忠告をしたが、彼は、

「そんなことはどちらでも同じだ」と多少捨て身のやうなことを云つた。⋯⋯⋯⋯

夕刻自笑軒で御馳走になつたがその時には「いま〳〵しいが葛西善蔵の芸術にはちよつといい所があるな」(佐藤春夫『芥川龍之介を憶ふ』1928(昭和3)年)

実によい文章たちである。いまは感想など書く気はまったくない。

とはいえなぜか、古井由吉の次の文を思い浮かべている。

子供の頃に可愛がられていた人間は、後年しぶといものです。孤立無援になった時、過去に無条件に好かれていたという思いがあれば、辛抱できるんです。

でも、人に好かれないで突き放されて生きていた人は、痛ましい話だけれど、強くてももろいところがあるんです。こういう人は子供の頃に体験できなかった感情を、成人してから調達しようとします。(古井由吉『人生の色気』)

漱石や鴎外、あるいは安吾のことに思いを馳せつつ言っているのだろうな、と以前は考えたものだが、いまは芥川も仲間入りしたという「錯覚に閉じ籠っている」。

最後にこう引用しておいてもよい。

「日本の読書会級だなんて自分で思つてるんだろう?しかしてめえたちはな、漱石の文学を読んだことなんざ一度だつてねえんだぞ。てめえたちにやそもそも漱石なんか読めやしねえんだ。漱石つてやつあ暗いやつだつたんだ。陰気で気違いみてえに暗かつたんだ。」(中野重治「小説の書けぬ小説家」)
世間には、漱石は通俗であつても鴎外は通俗でないといつたふうな俗見が案外に通用している傾きがある。実地には、漱石や二葉亭はなかなかに通俗ではなかつた。鴎外が案外に通俗であつた。(中野重治「鴎外その側面」)
強ひて申さば、自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる樣です。

文學上に問題になる生活の價値は、「將來欲」を表現する痛感性の強弱によつてきまるのだと思ひます。概念や主義にも望めず、哲學や標榜などからも出ては參りません。まして、唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。のみか、生活を態度とすべき文學や哲學を態度とした増上慢の樣な氣がして、いやになります。鴎外博士なども、こんな意味で、いやと言へさうな人です。あの方の作物の上の生活は、皆「將來欲」のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引きです。もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた事でせう。…

芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。今一人、此人のお手本にしてゐたことのある漱石居士などの方が、私の言ふ樣な文學に近づきかけて居ました。整正を以てすべての目安とする、我が國の文學者には喜ばれぬ樣ですが、漱石晩年の作の方が遙かに、將來力を見せてゐます。麻の葉や、つくね芋の山水を崩した樣な文人畫や、詩賦をひねくつて居た日常生活よりも高い藝術生活が、漱石居士の作品には、見えかけてゐました。此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)