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2020年2月8日土曜日

股下の薫陶は死の静膣




アウグスティヌス曰く、

われら糞と尿のさなかより生まれ出づ 
ーーアウグスティヌス『告白』
inter faeces et urinam nascimur
ーーAugustinus, Confessiones


老子曰く、

谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)

蚊居肢子パクリ、「われら屎尿の谷神、玄牝之門より生まれ出づ」トス


渡辺一夫=ラブレー曰く、「人はみな糞袋」

その糞尿譚では、ラブレーがよく使う言葉で「ボワヨー・キュリエ」というのがあるんですよ。解剖学的にいえば直腸のことなんでしょうが、ぼくは『糞袋』と訳すんです。そこでぼくがラブレーに一番打たれるのは、お前たちがどんなに高尚なことを言おうと、どんなに気取って深刻面をしようと、みな「糞袋」をもっている人間だということを忘れるなということを言っている点ですね。彼の作品は全体が、そのことのヴァリエションじゃないかと思うんです。神学者に対しても、宮廷の貴婦人に対しても、彼はそれをサチール(風刺)の物差しとしておりますね。カトリック教会に対しても、新教会に対しても、そんな無理をいってもだめですよ。人間は糞袋だといっているわけです。(渡辺一夫「ラブレーを読む」開高健との対談『午後の愉しみ』所収)


フロイト曰く、「屎尿の谷神は人の故郷」

女陰weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女陰 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


フロイト曰く、「人はみな故郷に戻りたい」

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)





蚊居肢子曰く、「何処かにいないか、頭を挿れさせてくれる女」


ラカン曰く、「屎尿の谷神は死のイマージュ」

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


フロイト=シェイクスピア曰く、「屎尿の谷神は沈黙の死の女神」

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)


ダリ=ジャコメッティ曰く、「屎尿の谷神は怖いから微かに触れるだけでいいや」

ジャコメッティの「宙吊りになった玉 Boule suspendue」、…女の溝 creux fémininで刻まれたこの木製の玉は、クロワッサンの上にヴァイオリオンの細い弦で宙吊りになっている。三日月型の縁は空洞 cavité に触れかかっている。見る者は、本能的に強制されて隆起物の上の玉を滑らせる。しかし弦の長さは二物の間の接触を部分的にしか許さない。(サルバドール・ダリ Salvador Dalí, « Objets surréalistes », Le Surréalisme au service de la révolution, 1931)





那河曰く、「屎尿の谷神のにおひは死のしずけさ」


須磨の女ともだちからおくられた
さくら漬をさゆに浮かべると
季節はづれのはなびらはうすぎぬの
ネグリジェのやうにさくらいろ
にひらいてにほふをんなのあそこ
のやうにしょっぱい舌さきの感触に
目に染みるあをいあをい空それは
いくさのさなかの死のしづけさのなか


――那河太郎「小品」






谷川曰く、「おとなってこどもよりずっとずっと/かわいくてかわいそう」


かわいそう     谷川俊太郎

わたしはともだちにうそをつくけど
おとなってじぶんにうそをつくのね
わたしはからだがちいさいけど
おとなってこころがちいさいのね
わたしはのはらであそびたいのに
おとなってほんとはおかあさんの
おなかのなかにもどりたいのね
それなのにおかあさんはもういない
おとなってこどもよりずっとずっと
かわいくてかわいそう



蚊居肢子曰く、「すべてはこのせい」






フロイト曰く、「ぼくのエディプス理論はオッカサンに対する防衛にすぎず、なーんの役にも立ちません、死ぬまで治癒不能の汽車恐怖症を抱えていたことを白状します」

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
後に(二歳か二歳半のころ)、私の母 matremへのリビドーは目を覚ました meine Libidogegen matrem erwacht ist。ライプツィヒからウィーンへの旅行の時だった。その汽車旅行のあいだに、私は母と一緒の夜を過ごしたに違いない。そして母の裸 nudamを見る機会 Gelegenheit, sie nudam zu sehenがあったに違いない。…私の旅行不安 Reiseangst が咲き乱れるのをあなたでさえ見たでしょう。(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fliess、4.10.1897)