2020年2月18日火曜日

ペニバンのすすめ


男たちはむかしは苦労したのである。

早朝の夢うつつの状態で精神の外部から入り込んできたのは…それは性交のさいに下になる女になることein Weib zu sein, das dem Beischlaf unterliegeも、またやはりなかなか素敵なことに違いないという考えであった。

このような考えは、私の気質にはまったく無縁のものであったのだ。いうまでもないだろうが、しっかり目が覚めているときであれば、このような考えは怒ってはねつけただろう。私はこの間の自分の体験に照らしてみるとき、その考えを自分に吹き込んだ何かしら外部からの影響がそこに関わっていたのではないかという可能性を、頭から否定してしまうことはもちろんできないのだ。(シュレーバーDaniel Paul Schreber『ある神経症者の回想録』)
光線Strahlen、あるいは神の神経 göttlichen Nerven が絶え間なく流れ込んでくることで、わたしの身体が官能神経によって満たされていくという事態は、いまやここ六年以上にわたって一瞬の中断もなく続いているーーそれ以来ずっと私は、いつかついには私の身にリアルな脱男性化(女への変身)wirklichen  Entmannung (Verwandlung in ein Weib) が実現するにちがいないという確固たる考えを抱いて生きてきた。 とりわけ全人類が私を除いて滅びてしまったと信じていたときには、人類を更新するための解決策として、脱男性化が絶対必要なことだと私には思われたのである。 私は実際いまもなお、そういった解決こそが世界秩序の内奥の本質にもっとも合致するものと見なしうることは疑いないと思っているーーこの困難な戦いを粘り強く最後まで遂行し、それに勝利したときの報酬は、何かまったく法外なものでなければならないと思うのである。(シュレーバーDaniel Paul Schreber『ある神経症者の回想録』)

最近はもはや性交のさいに下になりたいなんて願わなくても、女たちが勝手に馬乗りになってくれる。ペニバン攻めが好きな女だっている。シュレーバーのような悩みはすくなくなったのである。






もともと人間は母という能動者に対する受動者として人生を出発している。退行すれば、女になりたいのは当たり前である。

本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (⋯⋯)(例えば)男たちが本源的に抑圧しているのは、男色的要素(女性的要素)であるWas die Männer eigentlich verdrängen, ist das päderastische Element(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)


フロイト用語で注意しなければならないのは女性性の原抑圧でも拒否でも、その抑圧・拒否の失敗という意味があることである。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ vom 6.12.1896)

つまりは翻訳の失敗の残滓がエスのなかに居残り、リアルな無意識として人を支配する。

エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

人はその残滓に回帰せなばならない。エディプスの鎧で覆ってばかりいたら病気になるに決まっている。カタブツ男や女がとってもヘンなのはそのせいである。

もどらねばならないところはエスの核にある女性性である。

Wo Es war, soll Ich werden エスがあったところに、自我は到らなければならない。(フロイト『続精神分析入門』第31章、1933年)


より具体的にはマゾヒスムである。

女性的マゾヒズムfeminine Masochismusの根には、…苦痛のなかの快 Schmerzlustがある。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
サディズムは男性性、マゾヒズムは女性性とより密接な関係がある。daß der Sadismus zur Männlichkeit, der Masochismus zur Weiblichkeit eine intimere Beziehung unterhält ……(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)



中井久夫によれば、創造的になることは退行することである。たぶんそれは世界に対して「受動的あるいは女性的マゾヒスム」になることである。

何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。(中井久夫「執筆過程の生理学」1994年『家族の深淵』所収)

女性のみなさん、パートナーを創造的にするためにも、是非ペニバンを使用されたし。





以上は何も精神分析の領野の話だけではない。

(男たちは)女性に属していないというだけのことで、じつは自分のなかに、自分が使えない女性の胚珠 embryon をもっている。(プルースト「ソドムとゴモラ」)

女たちだけに受動性を享受させてはならないのである。21世紀の真の男女同権を目指すための重要なツールとして人はペニバンを顕揚せねばならない。



蚊居肢子は不幸にもペニバン程度の受動性では満足できない乳幼児期を送った。母と伯母という二人の女に世話されたのである。とくに伯母は足癖のひどく悪い女だった。したがって悪女を含めた3Pを憧憬するのだが、これはパートナーを探すのにひどく骨が折れる。






蚊居肢子は乳幼児期に原支配者かつ原誘惑者である二人の神をもってしまったのである。もし他人と比べていくらかヘンなところがあるとするなら、たんにそのせいに過ぎない。

(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


幸いにもシュレーバー 曰くの《光線Strahlen、あるいは神の神経 göttlichen Nerven が絶え間なく流れ込んでくることで、わたしの身体が官能神経によって満たされていくという事態》、すなわち「母なる神の光線」を今までの人生で危うく乗り切れたのは、彼の時代とは異なり、十全なる「父なる神の死」の時代を生きることができたためであろう。

最近発見したのは一人のパートナーでも鏡を使えば、3P感が出ることである。





■補足版:暗闇にはびこる異者としての女