2020年2月9日日曜日

美の起源はリビドー興奮


ところで「美の起源は性的興奮」というのは「正しい」んだろうか?

美の起源は性的興奮
芸術家の心理学によせて。――芸術があるためには、なんらかの美的な行為や観照があるためには、一つの生理学的先行条件が不可欠である。すなわち、陶酔Rauschがそれである。陶酔がまず全機械の興奮を高めておかなければならない。それ以前は芸術とはならないからである。実にさまざまの条件をもったすべての種類の陶酔がそのための力をもっている。なかんずく、性的興奮Geschlechtserregungという最も古くて最も根源的な陶酔のこの形式がそうである。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
「美」という概念が性的興奮 Sexualerregung という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの sexuell Reizende(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。

われわれが、性器そのものは眺めてみればもっとも激しい性的興奮をひきおこすにもかかわらず、けっしてこれを「美しい」とはみることができないということも、これと関連がある。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
「美」や「魅力」は、もともと、性的対象が持つ性質である。Die »Schönheit« und der »Reiz« sind ursprünglich Eigenschaften des Sexualobjekts.(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)
芸術とは所詮、情慾の一変形に外ならぬ。名文家と好色家との間にある心理的もしくは生理的な必然の関係は将来必ず研究発表されるであらう。ダンヌンチオの詩文、レニヱーのもの、わが荷風文学も亦その時の有力な証左として引用さるべきものであらう。色情は本来、生物天与の最大至高のものである。それを芸術にまで昇華発散させるのが人間獣の能力、妙作用である。色情によつて森羅万象、人事百般を光被させるのが所謂芸術の天分である。グルモンの所説の如く美学の中心は心臓よりももつと下部にある。この認識が荷風文学を理解の有力な鍵である。(佐藤春夫「永井荷風」1952年)


ここでの佐藤春夫は「色情を芸術にまで昇華発散させる」と言っているが、これはラカン派の表現なら防衛である。

美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ミレールJ.A.  Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)


ラカンの現実界とは何よりももまず快原理の彼岸にある享楽のことである。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel.(ラカン、S23, 10 Février 1976)
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)


享楽とはフロイト用語ではリビドーのことである。

ラカンは、フロイトがリビドーlibidoとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)


享楽=エロスエネルギーとはフロイトの別の言い方なら、リビドー興奮 libidinöse Erregung、性的中毒sexualtoxische等である。これは上に引用した文のなかにある性的興奮 Sexualerregungの言い換えである(フロイトはこのリビドー興奮に対する防衛を「心的外被 psychische Umkleidung」と呼んでいる[参照])。


なおフロイトの「性的中毒」とは、ラカンのサントーム(享楽の固着=リビドーの固着)にほぼ相当します。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。
この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1[S1 sans S2]を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)

このようにして、ジャック=アラン・ミレール 曰くの「美は現実界に対する最後の防衛」とは、「美は性的興奮に対する最後の防衛」となる。こうすると冒頭に掲げた「美の起源は性的興奮とピッタンコとなる。

そもそも防衛とは抑圧の言い換えである。

私は後に(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926 年)


フロイトには二種類の抑圧がある。原抑圧と抑圧(後期抑圧)である。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


そして原抑圧とは原防衛である。

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

したがって上に示した「美は性的興奮に対する最後の防衛」とは、「美は性的興奮に対する原防衛」と言い換えることができる。

ところで抑圧=防衛とは、抑圧の失敗、つまり防衛の失敗という意味がある。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ vom 6.12.1896)


これは、最晩年のフロイトからひけば、次の文に相当する。

自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)


したがって「美は性的興奮に対する原防衛」とは、「美はリアルな無意識に対する原防衛」と言い換えてみれば、ミレール の「美は現実界に対する最後の防衛」に回帰するのである。

フロイトは「翻訳の失敗」を「拘束の失敗」とも表現している。

(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)


この拘束の失敗により「無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es」が起こる(『制止、症状、不安』第10章、1926年)。

上にあるように外傷神経症と近似した反復強迫である。したがってここでも「美はトラウマに対する原防衛」とすることが可能である。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel[…]ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

※なおフロイトラカンにおけるトラウマの起源は出産外傷あるいは母からの分離である[参照]。


こうしてよく知られているリルケの「美しきものは恐ろしきものの始まり」やジュネ=ジャコメッティの「美の起源は傷」等にも繋がってくる。

美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。

Denn das Schöne ist nichtsals des Schrecklichen Anfang, den wir noch grade ertragen, und wir bewundern es so, weil es gelassen verschmäht, uns zu zerstören. Ein jeder Engel ist schrecklich. (リルケ「ドゥイノ・エレギー」古井由吉訳)
美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』)

Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti)
ベケットがはっきりと口に出してなにかを評価することはめったになかったが、評価を口にするときは必ず美と恐怖の関係への問いが背景に潜んでいた。わたしたちはジャン・ジュネの『シャティーラでの四時間』を読んだ。無感動な語り口が、犯された行為の残虐さをいかに正しく伝えているか、そして、それを絶対的なものとし、それでいながら、なにか気詰まりなものを保持している、――そんなことをわたしは言った。「そうだね、カフカの場合と同じパラドックスだ。内容のおぞましさと形式の清らかさ」――それがベケットの答えだった。(アンドレ・ベルノルド『ベケットの友情』)

以上、おそらく反論なさる方も多いことでしょうから、「美の起源は性的興奮」「美はトラウマに対する原防衛」の例外を、是非みなさんお考えなさってください。たぶん美とはゼンゼン関係がなさそうな哲学者、あの田舎者のカントの「崇高」「美は無関心」ーー《美は無関心(ohne interesse)に人の気に入る(gefallen)何かだ》『判断力批判』ーーなどを手始めにしてお考えになるのが手頃デセウ・・・

私の我慢ならない者ども。 ――セネカ、すなわち、徳の闘牛士。 ――ルソー、すなわち、不純な自然的なものというかたちをとった in impuris naturalibus 自然への復帰。 ――シラー、すなわち、ゼッキンゲンの道徳のラッパ手。 ――ダンテ、すなわち、墓穴のなかで詩をつくる鬣狗。 ――カント、すなわち、英知的知性としての偽善的口調 cant。 ――ヴィクトル・ユゴー、すなわち、無意味の大海のほとりに立つ大灯台。 ――リスト、すなわち、流麗さの学校 ――ご婦人たちによれば。 ――ジョルジュ・サンド、すなわち、乳のはった豊満 lactea ubertas、平たく言えば、「美しいスタイル」の乳牛。 ――ミシュレ、すなわち、上衣を脱ぎすてる感激。 ――カーライル、すなわち、辞退した昼食としてのペシミズム。 ――ジョン・スチワート・ミル、すなわち、侮辱的な明晰さ。 ――ゴングール兄弟、すなわち、ホメロスと戦う二人のアイアス。オッフェンバックの音楽。 ――ゾラ、すなわち、「悪臭を発する歓び。」 ――(ニーチェ「或る反時代的な人間の遊撃」『偶像の黄昏』)

最後に用心のためにーーこんなのフロイトの「汎性欲説」の典型的妄想だわ!などと言われる方がいらっしゃることでしょうからーー何度も引用している文ですが、「エロ画像を貼り付けるようにして」、美とはゼンゼン関係がなさそうなフロイト文をこう付け加えておきます。

リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。

しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。

これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合 geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…
愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)



………

わたくしはカントをほとんど読んでいないので、カクたることを言うつもりはないが、カントの「美は無関心」とは、欲望の宙吊りのことではないかと考えている。宙吊りによって享楽の領域にいたることだと。

欲望の宙吊り
美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7、18 Mai 1960 )
享楽 jouissance は欲望に応えるもの(満足させるもの)ではなく、欲望の宙吊りsurprend・踏み越え excède・逸脱 déroute、漂流 dérive させるもののことである。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
私は欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance. ラカン、E8251960年)
好きと愛する/欲望と享楽
ストゥディウム studiumというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。

プンクトゥム(punctum)――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな染み petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章、1980年)
享楽のテクストTexte de jouissance:それは、忘我の状態 met en état de perte に至らしめるもの、落胆させるもの déconforte(恐らく、退屈ennui になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの fait vaciller、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)