東京の場合には富も権力も情報も非常に集中しているために、どのようにして他の地方が東京を救援するかという問題は、実際検討されているのだろうか。私にはわからない。われわれが冷静でいられたのは、やがて救援があるということを疑わなかったからである。(中井久夫『精神科医の見た二都市 1995年2,3月』)
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東京の指令機能が不全に陥る可能性はないのだろうか。
つまり医療崩壊どころか国家行政崩壊の可能性はないのだろうか。
中枢の政治家や高級官僚がバタバタしだして。杞憂だろうか。
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パニック現象Phänomen der Panikは軍隊集団でもっともよく研究された。このような集団が崩壊するときにパニックが生ずる。
パニックの特質は、上官の命令がすこしもきかれなくなったり、だれもが他人のことをかまわずに自分のことだけを心配する点にある。相互の結びつきはやぶれ、巨大な正体のわからぬ不安が解き放たれる。
むしろその逆に、不安が大きくなったために、すべての顧慮や結びつきをすてるのである、という非難がここでも当然おこるだろう。マックドゥガルはパニックの場合を(もっとも軍隊のパニックではないが)彼の強調する伝染による情緒亢進の典型例とさえみなしている。しかし、この合理的な説明はこの場合全然まちがっている。なぜ不安がそれほど巨大になったかということこそ説明が要るのである。
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危険の大きさに責めに帰するわけにはいかない。なぜならば、いまパニックにおちいっているそのおなじ軍隊が、おなじほどの危険、いや、もっと大きい危険を立派に切り抜けてきたからである。またパニックが脅威をあたえる危険と比例しないで往々ごく些細な機縁で爆発するということこそまさにパニックの本質なのである。
パニックの不安にかられた個人が、自分自身のことを配慮しようとするとき、彼は同時に、それまで危険を軽視させていた情動的結合affektiven Bindungenが終ったという真相を証明している。危険に一人でたちむかうことになって、危険を過大に評価するであろう。したがって事情は次のようになる。パニックのさいの不安は、集団のリビドー的な構造の弛緩を前提とするものであって、その弛緩にたいする当然の反応であり、けっしてその逆ではない。つまり、集団のリビドー的な結びつきLibidobindungen der Masseが危険にたいする不安のために消滅してしまうわけではない。
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この見解は、集団の中の不安が感応(伝染)によって異常亢進するという主張と、決して矛盾することはない。マックドゥガルの見解は危険が実際大きなものであって、集団になんらの強固な感情のむすびつきがかけている場合には――たとえば、劇場や娯楽場で火事が突発したときに実現される条件だが――まことに適切である。しかしわれわれの目的に役立つ教訓に富む例は、上述したように危険がふつうの程度、また優に堪えうる程度をこえないのに、軍隊がパニックにおちいる場合である。「パニック」という語の用い方が、厳密にはっきり規定されることはのぞみがたい。あらゆる集団的不安が、しばしばそうよばれたり、限度をこえた個人の不安がそうよばれることもある。また、不安がそれ相応のきっかけなしに発生する場合に、とくに、この語がつかわれることが多いようである。
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「パニック」という語を集団的不安の意味にとるならば、さらに類推をすすめることができよう。個人の不安は、危険の大きさによって生ずるか、感情の結びつき(リビドー備給)Gefühlsbindungen (Libidobesetzungen)の喪失によって生ずるか、のいずれかである。後者の場合は神経症的不安neurotischen Angstの場合である。同様に、パニックも、すべての個人を襲う危険の増加によって起こるか、あるいは集団を統合している感情の結びつきの消失によって起こる、そして後者の場合は、神経症的不安に類似している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)
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