まずフロイトの異物(異者としての身体)は穴の名であることを示す。もともとラカンにとってトラウマ=穴 [troumatisme]であり、フロイトの異物の定義上、当然のことではあるが。
異物はトラウマの名である
Fremdkörper est un nom du trauma
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トラウマないしトラウマの記憶は異物のように作用する。das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, (フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
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われわれはエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es[…] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
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われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
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異者(異者としての身体)はモノである
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モノは異者である。la Chose […] est étrangère. (J.-A. Miller, Extimité, 20 novembre 1985)
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モノはフロイトが異者と呼んだものである。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
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したがって、ジャック=アラン・ミレール が「モノは享楽の名」というとき、「異者としての身体は享楽の名」と言い換えうる。
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モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
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次にモノの定義をみてみよう。
モノは穴の名である
das Ding est un nom du trou
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フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
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現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン, S11, 12 Février 1964)
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フロイトの反復強迫は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
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現実界は…穴ウマ(穴=トラウマ)を為す。 le Réel[…]ça fait « troumatisme ».(ラカン, S21, 19 Février 1974)
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問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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人はみなトラウマ化されている。 …この意味はすべての人にとって穴があるということである。[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
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以上により、
①モノは異者である。 ②モノは穴の名(トラウマの名)である。 これを受け入れるなら、「異物は穴の名 Fremdkörper est un nom du Trou」 とすることができる。 やや長くなるが、さらに確認しておこう。 |
モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。…ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。
Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre.… La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
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JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
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大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)
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大他者は身体である!L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
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自己身体の享楽はあなたの身体を異者にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre ](Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)
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モノは、その異者性の特徴において、不気味なものである。das Ding,[…] dans son caractère étrange, unheimlich (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
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私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
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モノとしての外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体のモデルmodèle corps étrangerである。…外密はフロイトの 「不気味なもの Unheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合う語である(親密/不気味 [Heimlich / Unheimlich])。(J.-A. Miller, Extimité, 13 novembre 1985)
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ーーこれで十全に確認できた筈である。
次に人間の原症状としてのサントームである。
サントームはモノの名である
Le sinthome est un nom de das Ding,
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サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)
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ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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サントームは反復享楽であり、S2なきS1[S1 sans S2](=固着Fixierung)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)
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ーーこのミレールを受け入れ、さらにここまで記してきた内容を前提とするなら、「サントームは異者としての身体の名 Le sinthome est un nom du corps étranger」とすることができる。
ここまで示してきたのは
①異物(異者としての身体)=トラウマ
②異物=モノ
③モノ=穴(トラウマ)
④サントーム=モノ
⑤サントーム=異物(異者としての身体)
である。
確認しよう。
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フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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ーーこのラカンの発言は、「フロイトの異物を現実界と呼ぶ」と言い換えうる。
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繰り返せば、異物 [fremdkörper]とは異者としての身体 [corps étranger]のことであり、穴=トラウマ [troumatisme]のことである。
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身体は穴である。le corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
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そして「サントームはモノの名」とは、サントームは異者としての身体の名、トラウマの名とすることができる。
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サントームは現実界であり、かつその反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
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したがって「異者としての身体は現実界であり、かつその反復である」となる。
現代ラカン派おける人間の生は、現実界に対する防衛、つまりトラウマあるいは穴に対する防衛だが、異者としての身体に対する防衛ともすることができる筈である。
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異者としての身体は意味作用に抵抗するのである。
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フロイトの思考によって開示されたトラウマの不透明さは、意味作用に抵抗することである。 l'opacité du traumatisme […] inaugurale par la pensée de FREUD… la résistance de la signification (ラカン, S11, 15 Avril 1964)
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意味作用への抵抗とは、ファルス化されないこと、言語化されないことである。
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ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
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…………
上にいくらか簡略化して掲げたが、フロイトによる異物の記述をもう少し詳しく掲げておこう。
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トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 [Fremdkörper] ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
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忘却されたもの Vergessene は消滅 ausgelöscht されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡 Erinnerungsspuren は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗備給 Gegenbesetzungen により分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離 isoliert されいる。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
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われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)
欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者fremd のようなものに思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
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自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…
自我は、二次的な防衛闘争 sekundäre Abwehrkampf において、原症状の異郷性 Fremdheitと孤立性 Isolierung を取り除こうとするものと考えられる。
…この二次的症状によって代理されるのは、内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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中井久夫はこの異物を《語りとしての自己史に統合されない「異物」》と表現している。
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
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フロイトの記述を追っていくとほぼ次のように捉えているように見える。
トラウマ的出来事があり、その固着 Fixierungがある(トラウマへの固着)。固着とは名付け得ない出来事の原象徴化の試みであり、トラウマの飼い馴らし、原抑圧の意味もある(ラカン派語彙なら穴に対する穴埋め)。通常、この固着はトラウマの隠蔽記憶 Deckerinnerungとなり、記憶残滓 Erinnerungsresteに解体される。残滓とは身体的なものが心的なものに翻訳されない残存物である。別の言い方ならエスのなかに置き残されて、エスの核となる。そしてこの身体的残滓が、暗闇に蔓延る異者となり、反復強迫をもたらす(参照)。
固着とは、別の言い方なら、欲動という奔馬を飼い馴らす最初の鞍である。だが、簡単には飼い馴らすことができず奔馬の残滓がほとんど常にある。この残滓を異者としての身体と呼ぶ。
飼い馴らされない欲動要求ーー《欲動要求はリアルな何ものかである [Triebanspruch etwas Reales ist]》(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)ーーは、エスの意志とも呼ばれる。
ーー最後に上に引用した『抑圧』論文1915に、《暗闇に蔓延る異者 wuchert dann sozusagen im Dunkeln […] fremd 》とあったことを思い起こしておこう。
固着とは、別の言い方なら、欲動という奔馬を飼い馴らす最初の鞍である。だが、簡単には飼い馴らすことができず奔馬の残滓がほとんど常にある。この残滓を異者としての身体と呼ぶ。
すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。
概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937年)
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「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。
しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)
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自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
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ラカンはこれを欲動の現実界と呼んだ。
欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…原抑圧との関係。私は信じている、フロイトの夢の臍を文字通り取らなければならない。それは穴である。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt,[…] je crois que c'est ça à quoi Freud revient à propos de ce qui a été traduit très littéralement par ombilic du rêve. C'est un trou (ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
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暗闇に置き残された夢の臍 im Dunkel lassen[…]Nabel des Traums」(フロイト『夢解釈』第7章、1900年)
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