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2020年6月20日土曜日

美は常に不気味なものである

"bizarre"という語はなんと訳したらいいのだろうとネットを探っていたら、ボードレールに行き当たった。

美は常に奇妙なものである。
Le beau est toujours bizarre
美は常に奇妙なものである。…私が言いたいのは、美の中には、常に、少量の奇妙さ、素朴な、故意のものではない、無意識の奇妙さがふくまれており、「美」を特に「美」たらしめているものは、まさにこの奇妙さだということである。それは、美の登録証明であり、特徴なのだ。

Le beau est toujours bizarre. ... Je dis qu'il contienttoujours un peu de bizarrerie, de bizarrerie naïve, non voulue, inconsciente, et que c'est cette bizarrerie qui le fait êtreparticulièrement Beau.C'est son immatriculation, sa caractéristique.
ボードレール, Curiosités esthétiques, 1868)

ーー「奇妙なもの」である。あるいは「異様なもの」と訳している人もいる。これらは辞書にのっている標準的な訳である。

ラカンの"une femme, c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté. "は、当面、「ひとりの女は奇妙なもの」としておこう。だが、étrangetéは異様ではなく、異者と訳そう。


ひとりの女は奇妙なものであり、異者である。
une femme, c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté. 
フロイトは愛の狂気に陥ってしまうこと対して用心深かった。そう、ひとりの女と呼ばれるものに対して。言っておかねばならない。ひとりの女は奇妙なものである。ひとりの女は異者である。 parce qu'il avait pris la précaution d'être fou d'amour pour ce qu'on appelle une femme, il faut le dire, c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)


もっともラカンは「異者=不気味なもの」とも言っているので、「ひとりの女は不気味なもの」としたいところである。


➡︎ひとりの女は不気味なものである。
une femme, c'est unheimlich
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


とすれば、ボードレールの"Le beau est toujours bizarre"は、「美は常に不気味なもの」としたくなるところである。

こちらのほうが、長く慣れ親しんできたリルケドゥイノの《美は恐ろしきものの始まり Denn das Schöne ist nichts als des Schrecklichen Anfang》や、ジュネ=ジャコメッティの《美には傷以外の起源はない Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure》に近い。

美には傷以外の起源はない Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)





フロイトの「不気味なもの Das Unheimliche」の仏語訳は「L'inquiétante étrangeté 」ーー「不安をいだかせる奇妙さ」あるいは「不安をいだかせる異者性」である。

heimは「家」であり、unheimは「家の抑圧」である。ラカン はこの「不気味なもの Das Unheimliche」を「外密 Extimité」ーー外にある親密ーーとした。

私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)

ジャック=アラン・ミレール の注釈ならこうである。

モノとしての外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体のモデルmodèle corps étrangerである。…外密はフロイトの 「不気味なもの Unheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合う語である(親密/不気味 [Heimlich / Unheimlich])。(J.-A. Miller, Extimité, 13 novembre 1985)


ラカン自身、モノ(=外密)を異者(異者としての身体)と等置している。

このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)


かつて家であって、だがその後、外にある「異者としての身体」の起源は、もちろん「母の身体」である。

子供はもともと母、母の身体に生きていた l'enfant originellement habite la mère …avec le corps de la mère 。…だがこの母の身体 corps de la mèreは、異者としての身体 corps étrangerになる。(Lacan, S10, 23 Janvier 1963, 摘要訳)


さらに具体的に言えば、母胎である。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

ーーここでの抑圧は、抑圧の第一相としての原抑圧もしくは排除である(参照)。そして排除とは「外に放り投げるVerwerfung」という意味である。確かに母胎は出生とともに外に放り投げてしまった。この出産外傷を、晩年のフロイトは《原トラウマUrtrauma》(1937)と呼んでいる。現在のラカン派は「原去勢」という語を使うことが多い。わたくしは仏女流分析家第一人者のコレット・ソレールが2014年のセミネールで、原母を《原穴の名 le nom du premier trou》と言っているのがお気に入りである。もちろん穴とは、トラウマかつ去勢の別の呼び方である。

もっともフロイトは母胎だけが不気味なものとは言っていない。

不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである。そしてすべての不気味なものがこの条件を満たしているのはおそらく確からしい。Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist, und daß alles Unheimliche diese Bedingung erfüllt.(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格dämonischen Charakter を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)


とはいえ、母胎回帰が究極の「不気味なもの=異者としての身体」の効果であることは間違いない。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


ラカンの享楽回帰も究極的には母胎回帰である。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…
享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…
大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]
享楽の対象としてのフロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


さて何の話だったか。「ひとりの女は不気味なもの」はよいとして、「美は常に不気味なもの」であるかどうかがここでの問いである。美はかつて自らの家であって、その後、「排除=外に放り投げてしまったもの」かどうかである。一般化は困難であるに決まっているが、とはいえよく考えてみなければならない。

フロイトラカン的には、外に放り投げてしまったものは常に応答ーーエスの応答あるいは現実界の応答ーーがある。

排除のあるところには、現実界の応答がある。Là où il y a forclusion, il y a réponse du réel   (J.-A. Miller, Ce qui fait insigne,  3 JUIN 1987)
「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)
享楽は外立する la jouissance ex-siste (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

ーー享楽とは現実界のことである、 《享楽は現実界にある [la jouissance c'est du Réel]》(ラカン、S23, 10 Février 1976)。かつまた《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 2011)

この身体的なものが外立する。

外立の現実界がある il a le Réel de l'ex-sistence (Lacan, S22, 11 Février 1975)

外立とは、文字通り「外に立つ」であり、心的なものの外部に身体的なものが「異者としての身体」として放り投げられ、この身体が心的装置に同化されないゆえにこそ反復強迫することである。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)


わたくしはこの外立を「たたり」とするのを好む。

神のたたり=女のたたり(女の外立)
・後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。

・たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。

・たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。

・此序に言ふべきは、たゝふと言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)

問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu(ラカン、S23、18 Novembre 1975)





「女がたたる」のはかつてからよく知られている。繰り返せば、ここでの問いは「美は常にたたるのかどうか」である。

中井久夫は、胎内で聴いた母の心音が《一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている》と言っているが、これも美の起源であるに相違ない。それだけではなく、以下の文には、美の効果を生むための種々のヒントがあるかもしれない。

胎内の記憶
胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。
触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口-身体-指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。
聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。
視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)


おそらく最も重要なことは、次のような形になって美に思いを馳せることではないだろうか。



だがわたくしの場合、長年連れ添った妻だとどうもいけない。新鮮な若い女に限るのだが、最近はなかなかその機会がない不幸をもっている。

なおここでの記述から当然ではあるが、誤解のないように付け加えておけば、女というものが排除されているのは、男たちにとってだけでなく、女たちとってもそうである。



原抑圧=排除されている女というもの
本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと思われる。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (フロイト,フリース宛書簡 Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
女というものは、その本質において、女にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように。[La Femme dans son essence,  …elle est tout aussi refoulée pour la femme que pour l'homme]

なによりもまず、女の表象代理は喪われている。人はそれが何かわからない。それが「女というものである。[- d'abord en ceci que le représentant de sa représentation est perdu, on ne sait pas ce que c'est que La Femme](ラカン, S16, 12 Mars 1969)
表象代理は二項シニフィアンである。この表象代理は、原抑圧の中核を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能となる引力の核とした。
Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. […] il à constituer le point central de l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements (ラカン、S11、03 Juin 1964)
私が排除 forclusion について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、…象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。

Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,… tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. (ラカン、S16, 14 Mai 1969)








したがって男たちにとってだけでなく、女たちにとっても「女のたたり」があるのである。女たちには「男のたたり」など決してないのは、少しでも良質の文学を読んだことがあるものなら誰もが知っていることだろう。たたるのは女だけである。たとえば異郷の女としてたたる。


異郷の女
亭主が部屋を出るか出ないかのうちに、フリーダは電燈を消してしまい、台の下のKのわきに身体を置いた。「わたしの恋人! いとしい恋人!Mein Liebling ! Mein süß er Liebling」と、彼女はささやいたが、Kには全然さわらない。恋しさのあまり気が遠くなってしまったように仰向けに寝て、両腕を拡げていた。時間は彼女の幸福な愛の前に無限であり、歌うというよりは溜息をもらすような調子で何か小さな歌をつぶやいていた。

ところが、Kがもの思いにふけりながらじっと静かにしているので、彼女は驚いたように飛び起き、まるで今度は子供のように彼を引っ張り始めた。「さあ、いらっしゃいな、こんな下では息がつまってしまうわ!」 

二人はたがいに抱き合った。小さな身体がKの両腕のなかで燃えていた。二人は一種の失神状態でころげ廻った。Kはそんな状態から脱け出そうとたえず努めるのだが、だめだった。二、三歩の距離をころげて、クラムの部屋のドアにどすんとぶつかり、それから床の上にこぼれたビールと、床を被っているそのほかの汚れもののうちに身体を横たえた。

そこで何時間も流れ過ぎた。かよい合う呼吸、かよい合う胸の鼓動の何時間かであった Dort vergingen Stunden, Stunden gemeinsamen Atems, gemeinsamen Herzschlags, Stunden。そのあいだKは、たえずこんな感情を抱いていた。自分は道に迷っているのだ。あるいは自分より前にはだれもきたことのないような遠い異郷 Fremde へきてしまったのだ。この異郷 Fremde では空気さえも故郷の空気とは成分がまったくちがい、そこでは見知らぬという感情のために息がつまってしまわないではいず、しかもその異郷 Fremdheit のばかげた誘惑にとらえられて、さらに歩みつづけ、さらに迷いつづける以外にできることはないのだ、という感情であった。そこで、クラムの部屋から、おもおもしい命令調の冷たい声でフリーダを呼ぶのが聞こえたとき、それは少なくともはじめには彼にとって驚きではなく、むしろ心を慰めてくれるほのぼのした感じであった。(フランツ・カフカ Franz Kafka『城 DAS SCHLOSS』原田義人訳)


■Regine Crespin; "In der Fremde"; LIEDERKREIS op. 39; Robert Schumann




そう、フリーダのように、治外法権としてのーーラカンは「法なき現実界Réel sans loi」と言ったーー、自我の不気味な異郷がたたる。

自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


フリーダこそ、至高の、狂気の愛の女、破壊の女、無限の女の典型である。




自我の異郷としてのエスの欲動蠢動について、フロイトの先達ニーチェは次のように歌った。

ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。[- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!]

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?[- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年)

 さて、美はあの古い、深い、深い真夜中に起源があるのだろうか?

ニーチェは音楽についてはこう言っている。

夜と音楽。--恐怖の器官 Organ der Furcht としての耳は、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明のなかでのみ、畏怖の時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、現在見られるように豊かな発展することが可能だった。光のなかでは、耳はそれほど必要ではない。それゆえに、夜と薄明の芸術という音楽の性格がある。(ニーチェ『曙光』250番)

ここでウェーベルンの作品9か作品5を貼り付けようか。いややめておこう、あれはいつでも聴ける音楽ではない。あの不気味な静けさとざわめきとひしめきは、美が恐ろしきものの始まりであることをわたくしに最も強く感じさせてくれる作品である。それゆえにこそ、あの作品と親密な友となったわたくしでも時に堪え難くなる。