私はどこからやってきたのか
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スフィンクスの謎 Das Rätsel der Sphinx
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小児の性生活が最初の開花に達するのと同じ時期、つまり三歳から五歳までの年頃に、小児にはまた、知の欲動あるいは探究欲動 Wiß- oder Forschertrieb にもとづく活動の発端が現われてくる。この欲動は、本源的な欲動成分 elementaren Triebkomponenten とみなすわけにもゆかず、またセクシャリティSexualität だけに区分することもできない。この活動は一方では独占 Bemächtigung の昇華された仕方sublimierten Weise に対応し、他方では覗見欲Schaulustのエネルギーを用いて行われる。しかし性生活への関係がとくに重要なのであって、それというのは、小児たちの知の欲動 Wißtrieb は思いもよらないほどに早く、また意想外に激しい仕方で、性的問題 sexuellen Problemen に惹きつけられる、いやそれどころか、おそらくは性的問題によってはじめて目ざめさせられる、ということをわれわれは精神分析によって知ったからなのである。…
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小児における探究活動の働きを進行させるのは、理論的な関心ではなくて、実践的な関心である。次の子供が実際に生れたり、やがては生まれるという予想のために自分の生存条件が脅かされたり、またこの出来事と関連して、親の愛や庇護を失うかもしれないと恐れるために、小児は物思いがちになったり、敏感になったりするのである。この探究活動の発達段階において、小児が熱中する最初の問題は、性差 (ジェンダー差異 Geschlechtsunterschiedes)の問題ではなく、子供はどこからやってくるのかWoher kommen die Kinder? という謎である。これは、テーベのスフィンクス thebaische Sphinx がかけた謎の一つの変形である。(フロイト『性理論三篇』1905年)
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かつてそこにいた場所
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風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャヴュ déjà vu〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母の性器 Genitale der Mutter である。事実「すでに一度そこにいたことがある dort schon einmal war」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母の陰部に指をつっこんだFinger ins Genitale der Schlafenden ことがあった。(フロイト『夢解釈』1900年)
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女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
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多くの学者が指摘しているが、西洋の究極の性のシンボル、ハートは、ヴァギナを表したものにほかならない。確かに生殖器が興奮し、自分の意志で陰唇が開いた状態にあるとき、ヴァギナの見える部分の輪郭は紛れもなくハートの形をしている。(キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史 』)
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