フロイトの英訳者であり、メラリー・クラインとも一緒に仕事をした女流分析家ジョアン・リヴィエール Joan Rivièreの古典的論文「仮装としての女性性 Womanliness as a Masquerade」1929年)にはこうある。
「仮装としての女性性 Womanliness as a Masquerade」
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女性性 Womanliness は仮面を身につけること worn as a mask として捉えうる。…
分析のあいだに、夫への敵意をもった去勢衝動 [the hostile castrating impulses towards the husband] が光を照射される過程がある。そのとき性交への欲望はとてもひどく減じられている。彼女は相対的に冷感的になる。女性性の仮面は剥ぎ取られ[The mask of womanliness was being peeled away]、彼女は去勢された者(気の抜けた、快に素っ気ない者)として顕われたり、去勢する者(ペニス受け入れペニスによって満足を与えられるのを恐れる者)として顕われたりする。…
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日常的において、人は女性性の仮面[the mask of femininity]が奇妙な形式をとることを観察しうる。……
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これらの帰結はさらに次の問いに人を直面させる。
完全に発達した女性性の本質的性質とは何か? 永遠の女性とは何か? 仮面としての女性性という概念は、その背後に男性が隠された危険を想定するものであり、謎にわずかな光をあててくれる。what is the essential nature of fully-developed femininity? What is das ewig Weibliche? The conception of womanliness as a mask, behind which man suspects some hidden danger, throws a little light on the enigma. (ジョアン・リヴィエール Joan Rivière「仮装としての女性性 Womanliness as a Masquerade」1929年)
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だが、女たちは何に対して仮面をかぶるのだろう?
根源的には女性器をヴェールするマスクに他ならない。実は誰もが、仮に無意識的にであれ知っていることである。それを外示するか暗示するだけに留めるかの相違があるだけである。
それをもっているために女であり、そのために男を誘惑し、それが原因でおとしめられ、女の中核でありながら、女自身から最も女が遠ざけられているもの (上野千鶴子『女遊び』1988年)
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ファルスになるためにーーつまり大他者の欲望の対象になるためにーー、女は女性性の本質的部分を拒否する。つまり女性性のすべての属性を拒絶して仮装のなかに隠す。女は、彼女でないもののために、愛されると同時に欲望されることを期待する。C'est pour être le phallus c'est à dire le signifiant du désir de l'Autre que la femme va rejeter une part essentielle de la féminité, nommément tous ses attributs, dans la mascarade. C'est pour ce qu'elle n'est pas qu'elle entend être désirée en même temps qu'aimée. (ラカン 「ファルスの意味作用」E694、1958年)
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この1958年のテキストは、女性性に関するラカンのポジションを教えてくれる。このテキストは、今ではセミネール20「アンコール」に比べ、しばしば見逃されている。だがラカン のその後の展開の胚芽的起源を含んでいる。
このテキストが示しているのはーー、
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①女はファルスではない。だが女は、欲望のシニフィアン、大他者にとってのファルスになることを欲望することである。ここに現れているのは、女の女自身に対する他者性の命題である。女は自らを大他者に欲望のシニフィアンに転化させる。というのは大他者はファルスを欲望するから。That a woman is not the phallus but desires to be the phallus for an Other as a signifier of his desire. Here appears the theme of woman's otherness with regard to herself: she turns herself into the signifier of the Other's desire. For the Other desires the phallus.(…)
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②仮装は存在の原欠如の上に構築されている。女性の仮装によって拒絶される女性性の本質的部分は何か。最初の接近法としてこう言おう。拒絶される女性性の本質部分は女性器である。女は女性器(肉体的裂目)をヴェールする。そして身体の他の部分を見せびらかす。
The masquerade is built on this primordial lack in being. What is the essential part of her femininity that is rejected? Let us say it in a first approach: it is the sexual organ. She veils the sexual organ (the anatomical gap), whereas she displays other parts of her body. (ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus, 2010)
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女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装 la mascarade féminineと呼ぶことのできるものの彼方に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性féminité のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン, S5, 23 Avril 1958)
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女性は自らが持っていないものの代わりにファルスを装う。つまり対象a、あるいはとても小さなフェティッシュ (φ) を装う。[elle ne peut prendre le phallus que pour ce qu'il n'est pas, c'est-à-dire : soit petit(a) , l'objet, soit son trop petit (φ) ](ラカン 、S10, 5 Juin 1963)
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女はむしろ、私が男のものだと考える倒錯にたいして迎合的である[Elle se prête plutôt à la perversion que je tiens pour celle de L'homme]。このことは、女を例の仮装 mascaradeへと向かわせる。この仮装は、…恩知らずの男が女を責めるような虚偽mensongeではない。それは、男の幻想が女性の裡におのれの真理の時を見いだすために準備するという万一を見込むことだ。……なぜなら、真理は女[la vérité est femme ]なのだから。…つまり真理は非全体[pas toute]だから。(Lacan, AE540, Noël 1973)
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上の二図をまとめて、一つのトーラス円図で示せばこうなる。
上に示したラカンが《女性は自らが持っていないものの代わりにファルスを装う。つまり対象a、あるいはとても小さなフェティッシュ (φ) を装う》と言っているように、上部の (φ) は、通常、 (a) と記されることが多い。
-φ [去勢]の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 9/2/2011ーー穴と穴埋め文献)
…………
以下、ここでの話題ではないが、上のトーラス円図の重なり目の底部の去勢=穴自体、これまた対象aであり、おそらくラカン派プロパでないと、いやそうであってさえも混乱していることが多い。
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ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)
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さらに厄介なのは、穴と穴埋め以外に穴埋めの残滓ーー穴埋めは充分には不可能であり、残滓が必ずあるーーこの残滓も対象aなのである。
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不気味な残滓がある。il est resté unheimlich (Lacan, S10, 19 Décembre 1962)
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享楽は、残滓 (а) を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а) (ラカン, S10, 13 Mars 1963)
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つまり次のような具合になる(穴埋めの対象a自体、厳密に言えば、精神病、倒錯、神経症等にてそれぞれによって異なるがここでは割愛)。
したがって中ほどに示した女性の仮装図は、実際は次のように図示しうる内容を持っている。
これは安吾が示している話と相同的である。
むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。
ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)
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というわけで、服など着るのをやめて女たちはみんな裸で歩くようになったら、世界はいくらか平和にナルデセウ・・・
服を着ること自体、見せることと隠すことの動きのなかにある。Le vêtement lui-même est dans ce mouvement de montrer et de cacher.(ミレール 「享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE」1994年)
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身体の中で最もエロティック érotique なのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。…精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇intermittenceである。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらりと見える肌 la peau qui scintille の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えること自体 scintillement même qui sédui である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)
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いやいやそうであっても二本足で歩くヒト族の雌は股の間に女性器が隠されており、究極的には人間が二本足で歩くようになってしまったこと自体が、劣情をシゲキする不幸の起源なのかもシレマセン・・・
これだって実はイダイなる「若き」上野さんから学ばせてイタダキマシタ。
次善の策はガニ股裸歩きの修練でせう・・・これにて世界からセクハラはかなり減るのではナイデセウカ?
これだって実はイダイなる「若き」上野さんから学ばせてイタダキマシタ。
女の下着にはもともと、性器を隠す機能は必要ありません。女の性器は解剖学的な位置関係や形状からいっても、そのままでは外から見えない部分です。(上野千鶴子『スカートの下の劇場』1989年)
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女性器の剥き出しは厄除け行為として知られている das Zeigen der Genitalien auch sonst als apotropäische Handlung bekannt ist. (…)ラブレーにおいても、女にヴァギナを見せられて悪夢は退散している。Noch bei Rabelais ergreift der Teufel die Flucht, nachdem ihm das Weib ihre Vulva gezeigt hat. (フロイト、メデューサの首 Das Medusenhaupt(1940 [1922])
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もっともこのあたりは霊長類の研究(チンパンジーやボノボなど)を視界に入れる必要があるでしょうが。ちなみにチンパンジーの女性の方は発情期には《1 日のうちに10 頭以上のオスと 50 回以上交尾をすることもめずらしくない》そうです(霊長類進化の科学 PDF )。
以上、「残滓」以降に記した話は、前段の話との整合性がないように気がする方がいらっしゃるかも知れぬが、これこそエクリチュールの残滓でありアシカラズ。《アシは不当にも欠けている女性のペニスを代替する。Der Fuß ersetzt den schwer vermißten Penis des Weibes. 》(フロイト『性理論三篇』1905年)
最後に再三引用している真の女についての「奇妙な」見解をふたたび掲げておきましょう。
Truffaut, L'Homme qui aimait les femmes
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最後に再三引用している真の女についての「奇妙な」見解をふたたび掲げておきましょう。
真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée.(J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)
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(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン, S2, 16 Mars 1955)
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構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者との同一化がある。それは起源としての原母 [primal mother] であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽の本源的状態[original state of pure jouissance]を再創造しようとする。
この理由で、セクシュアリティは、つねに魅惑と戦慄 [fascinans et tremendum]、つまりエロスとタナトスの混淆(融合と分離の混淆ーー欲動混淆Triebentmischung)なのである。これが明らかにすることは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も自らが恐れるものを憧憬する。つまり享楽の原状態 [original condition of jouissance ]の回帰憧憬である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)
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ラカン派とはこういうケッタイなことを言う連中ですからお気をつけを!
でも古井由吉だって戦争中、ケッタイな目に遭遇しかかったそうです。
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女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)
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おそらく真の女の方だけがご存知のケッタイさなのでせう、ーー《あらゆる点で女は女を知らない。いちいち男に自分のことを教えてもらっている始末である。》(三島由紀夫「女ぎらいの弁」)