2020年7月18日土曜日

愛の条件 Liebesbedingung

前回リンクした「フェティッシュのインフレは難しいよ。

前提は次のようなことなんだけど、これでさえふつうの人は受け入れがたいらしく、たとえば以前にさるそれなりに聡明な女性に折に触れて2年ぐらい言い続けていたのだけど、まったく馬耳東風で終わったから。標準的にはああなんだろうな。精神分析理論が性愛問題の探求だとしたら、基本はここにしかないのだが。


愛とは女神アフロディーテの一撃だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった。 L'amour, c'est APHRODITE qui frappe, on le savait très bien dans l'Antiquité, cela n'étonnait personne.(ラカン, S9, 21 Février 1962)

男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛マニア形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)

ーーわたしたちは偶然に彼や彼女を見出すのではありません。どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?

それはフロイトが Liebesbedingung と呼んだものです、すなわち愛の条件 la condition d'amour、欲望の原因 la cause du désirです。これは固有の特徴 trait particulier なのです。あるいはいくつかの特徴の組合せといってもいいでしょう。それが愛される人を選ぶ決定的な働きをするのです。これは神経科学ではまったく推し量れません。というのはそれぞれの人に特有なものだからです。彼らの風変わりで内密な個人的歴史にかかわります。この固有の特徴はときには微細なものが効果を現わします。たとえば、フロイトがある患者の欲望の原因として指摘したのは、女性の「鼻のつや Glanz auf der Nase」でした。

――そんなつまらないもので生まれる愛なんて全然信じられない!
無意識の現実 La réalité de l'inconscient はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、《神の宿る細部 divins détails》によって基礎づけられているかを。

とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュとしての欲望の原因[causes du désir, qui sont comme des fétiches]が愛の過程を閃き促すのです。ごく小さな特異なもの、父や母の想起、あるいは兄弟や姉妹、あるいは幼児期における誰かの想起もまた、女性に愛の対象選択 [le choix amoureux des femmes]に役割をはたします。
でも女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛マニア的です[Mais la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)



幻想の役割において決定的なことは、「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の原因 cause du désir」とのあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。「欲望の対象 objet du désir」とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームで言うとすれば、私が欲望するひとのことだ。逆に「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」とは、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」が何なのか気づいてさえいない。――そう、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。

「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」の相違というのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これはフロイトがすでに「唯一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)



――幻想の役割はどうなのでしょう?
女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりする être battue, violée ことを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だ être une autre femme,と想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいない être ailleurs, absente と想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。

――男性の幻想はどうなのですか?
最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。

ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。

このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(J.-A. Miller,  On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " , 2010)





人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的であるl'amour est labyrinthique 。愛の道のなかで、人は途方に暮れ自らを喪う。……

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動性 l' automaton de l'amour」である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebesbedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。……

私は愛の自動性の一般化定式を、三段論法の形式で提案しよう。精神分析における愛の三段論法である。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。

・愛は転移である l'amour est transfert。

・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。……

フロイトは見出したのである。「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…

例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択choix d'objet narcissique である。あるいは母が主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む。(ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)