2020年8月2日日曜日

そっくり騙されてゐたとしても


おもうふこと。―あゝ、けふまでのわしの一生が、
そっくり騙されてゐたとしてもこの夕栄のうつくしさ    金子光晴


とてもよい詩句だな、なんという名の詩か、いつ書かれたものかもわからないが。たぶん最晩年じゃないだろうか。

才うすくして詩などにとり憑かれたことは、性のわるい女郎に入れあげて、尻の毛まで抜かれるのと、いずれが甲乙をきめがたい。(金子光晴『どくろ杯』1971年)

 葉うら、薬おもてにうみつけられた卵は孵り、幼蟲は八方にわたりゆき、芽をくらひ、葉を穿つて、綠をはぎ取つて糧とし、『昇天のよき日』にそなへるために、いまの身のみにくさのかぎりを悟つてゐる。毛で蔽はれた蟲、裸の蟲、毒の細鱗、ふるへる觸手、うすい殻で、かたい甲で、織毛の銀で、卷づるのぜんまいで、粘膜で、竹紙のやうなうすい脈翅で、さらりとした皮膚で、ぬらつとした肌で、糞土の地から黑徽の天まで、一分一秒のすきまもなく、おしのけ、からみ、首をしめ、肥え、ふくれ、漲り、ふりそそぎ、瞑眩し、朦朧となり、一つの血管から、よその血管に生血がうつされ、あひてのいのちが衰へることで他のいのちが榮え、不断に輪廻し、循環し、分泌し、排池し、射精し、炭酸瓦斯を發散し、恥もしらずに姦淫し、繁殖し、時空の外まで氾濫しながらも、全體がひしげたかたちに大きくゆがみ、それ自身の『業』の重量(おもみ)で、解體の方向へ傾いてゆくありさまは、もはや、地球がこれ以上の生命をのせきれない極點をみてゐるやうである。

 生きてゐるなんてことは、いかほど合理化してみても、むごたらしいことにかはりない。犠牲なく一日も生きることはできないのだ。僕の自叙傳はおほむね、凡庸な一人の矮人(せひくおとこ)が多くの同類のあひだに挟まつて、不意打ちな『死』の訪れるまでを、どうやつてお茶をにごし、目をふさぎ、耳をふさぎ、どうやつて真相と当面するのを避けて、じぶんたちの別な神、別な哲学、別な思想で、どん帳芝居にうつつをぬかしたかといふこととなるのだ。(金子光晴『人間の悲劇』1954年)

老人のゐるところはどこでも地底に通ふが、僕らがはじめて生をうけた女胎の内襞も、どこかで地底のくらさとつながり、そのおなじやはらかい壁をへだてて、いつも焔の燃えあがるやうな、生活のどよめき、太鼓の音が、股々と踏みとどろいてゐる。そのくらやみの猩々緋が、たとえ墓穴に似てゐても、早合点は禁物で、人間に死の安楽などはない。一旦身を横へれば、僕らのまわりで眠つてるた蛇、蠍が早速、首をもちあげ、毒針の尾を巻きあげて、物の煮えるような音をさせてくつくつとさわだちはじめるのである。(金子光晴『IL』1965年)