小津安二郎は退屈だってのはよくわかるさ、ストーリーとしては。若いころは「なんだこの映画!」と思ったね。
いまだって惹きつけるられるのは細部だけだな。
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ふと、知らないメロディを聞いて、ああ、これは何だろうと惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように、美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたいのです。(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」1987年8月15日、於スイス・ロール村――蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)
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『浮草』から杉村春子の情景を三つ切り取ったものだが、ボクにとっては「ああ、おばあちゃん!」だね。幼少期、母が病気がちでいつも寝ていたのでおばあちゃんっ子だったし、こういった土間の光景をよく見る時を持ったからな。今の若い人にはないのだろうけど、ボクの小津は何よりもまず台所だな。要するに小津のイマージュにはボクの幼年期が書き込まれているんだ。
台所の光景以外にも次のような感慨をいだく情景がふんだんにあるな。
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この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫 larves obscures alors indistinctes のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。このような二つの状態のあいだに起きたのは、まぎれもない質の変化ということだった。それとはべつに、いくつかの楽節によっては、はじめからその存在ははっきりしていたが、そのときはどう理解していいかわからなかったのに、いまはどういう種類の楽節であるかが私に判明するのであった……(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)
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