2020年8月23日日曜日

あんな意気地のない女に今までばかされて居ったことかとくやしくも腹立たしく相成候

前回末尾に示した子規の文を再掲することから始める。

貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するはまことに気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて候いしかば、今日世人が『古今集』を崇拝する気味合はよく存申候。崇拝して居る間はまことに歌というものは優美にて『古今集』はことにその粋を抜きたるものとのみ存候いしも三年の恋一朝にさめてみればあんな意気地のない女に今までばかされて居ったことかとくやしくも腹立たしく相成候。(正岡子規「再び歌よみに与ふる書」1898年)

……………

前回示したように「現実界=トラウマ=モノ=異物(異者としての身体)」である。

そして原症状としてのサントームとは、

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

ーーこれは「サントームはトラウマであり、かつトラウマの反復である」でよい。

サントームはモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

モノ=トラウマ=異者であり、つまりは「サントームはトラウマの名」「サントームは異者の名」である。

ラカンは晩年、次のように言った。

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

ようは、女はトラウマであり、反復強迫するのである。

サントームは反復享楽であり、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)

フロイトの固着とは、身体の上への出来事(トラウマへの固着)である。

「病因的トラウマ ätiologische Traumen」は…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1939年)

そして「身体の出来事=サントーム=女性の享楽」である。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)

これが本来の享楽である。

サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)
享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. […] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, […] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

いまだ大半のラカニアンはアンコールの女性の享楽に囚われている。だが本来の女性の享楽はそうではない。

確かにラカンは第一期に「女性の享楽 jouissance féminine」の特性を「男性の享楽jouissance masculine」との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)

繰り返せば、女性とはそのあたりにウロウロしている女たちではなく、トラウマ=異者のことであり、女性の享楽とはトラウマの反復、異者の反復のことなのである。

最後に、臨床的核心とは言わないでおくが、フロイトラカンの理論的核心を主に示すものとして、次の五つのフロイト文を掲げておく。

トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 [Fremdkörper] ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)
自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
「病因的トラウマ ätiologische Traumen」は…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1939年)


固着とは身体的なものをエスに置き残すことである。このエス=現実界に置き残された身体が異物(異者としての身体Fremdkörper)であり、ラカンはこのエスに置き残された身体を「ひとりの女」と呼んだのである。

自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識(リアルな無意識)としてエスのなかに置き残されたままである[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück] 。(フロイト『モーセと一神教』第2章E、1939年)