2020年8月23日日曜日

穴という冥界の引力

「現実界=享楽=穴」というラカンの穴とはフロイトの引力のことだよ

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

フロイトは原抑圧を他のすべての抑圧が可能なる引力の核とした。l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements(ラカン, S11, 03  Juin  1964)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


より厳密にいえば、引力は「愛の引力」、「エロスの引力」。

愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がおそらくある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト、人はなぜ戦争するのか Warum Krieg? 1933年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスと破壊)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


なぜラカンは穴をトラウマとするのかといえば、死は愛、死は享楽だから(参照)。

死は愛である la mort, c'est l'amour. (Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES, 1988)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006ーー「三段階の享楽」)



穴という引力は、別名ブラックホール。究極的には女陰の引力。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現[apparition sur la scène d'une forme de femme、ヴェールが落ちて[son voile tombé]、ブラックホールtrou noir のみを見させる光景の顕現である。(Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750, 1958)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


アソコは世界の起源なんだから引力の力があるにきまっている。

ゴダール、映画史、2A

原初に何かが起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「Aの形態 la forme A」を取った何かを生み出させようとして、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させようとして faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)



自傷行為が女性ばかりに多いのは、リビドー=享楽の穴の力によるところが多いんじゃないだろうかな。

リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない。La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
リビドーは愛と要約できる。Libido ist […] was man als Liebe zusammenfassen kann. …それは愛の欲動Liebestriebeである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)


いくら最近のツイフェミあたりがエラッそうでも、男たちはあんまりイジメたらだめだよ。死の欲動に対する防衛の矛先が、エラッそうな男たちに向かっているだけかも知れないからーー、《愛は死の欲動の側にある。[l'amour est du côté de la pulsion de mort]》(Jean-Paul Ricœur, LACAN, L'AMOUR, 2007)

主体の自傷行為は、イマジネールな身体ではなくリビドーの身体による[l'auto mutilation du sujet […] le corps qui n'est pas le corps imaginaire mais le corps libidinal]( J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6   - 16/06/2004)
究極的には死とリビドーは繋がっている。 finalement la mort et la libido ont partie liée.(J.-A. MILLER,   L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)

自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même..  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。(…)我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



要するに「愛の欲動 Liebestriebe」と「死の欲動 Todestriebe」は対立しているのではなく、究極的には愛の欲動=死の欲動であり、エロトスErotosなのである。






享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)
すべての欲動は実質的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort. Lacan, E 848, 1964)


男の死の欲動なんてかわいいもんさ。ファルスでなんとか防衛できる。《ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance 》(J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)

問題は女のほうだね。

死の欲動は現実界である。不可能としてしか考えれないという限りで。つまりはチラリと鼻先を覗かせるだけであり、思考しえないものである。この不可能と取り組むことは何の希望も構成しない。不可能なものが死であり、この思考しえない死が現実界の基礎である。
La pulsion de mort c'est le Réel en tant qu'il ne peut être pensé que comme impossible, c'est-à-dire que chaque fois qu'il montre le bout de son nez, il est impensable.   Aborder à cet impossible ne saurait constituer un espoir. Puisque cet impensable c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel qu'elle ne puisse être pensée. (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


どう心で頑張って抵抗したって、身体という冥界機械からコピュリンなる女性フェロモンを排卵期には放出させて、男を無意図的無差別的に誘惑してるらしいから。女の身体こそ真の平等主義者さ。





このヴァギナフェロモンを飼い馴らすのは極めて困難な筈だよ。男に八つ当たりしないでいられるのは、事実上、閉経後しかないんじゃないか。

女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。…西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)

女が事実上、男よりもはるかに厄介なのは、子宮あるいは女性器の側に起こるものの現実をそれを満足させる欲望の弁証法に移行させるためである。Si la femme en effet a beaucoup plus de mal que le garçon, […] à faire entrer cette réalité de ce qui se passe du côté de l'utérus ou du vagin, dans une dialectique du désir qui la satisfasse (Lacan, S4, 27 Février 1957)


欲望とはラカンの定義においては言語の法に従属しており、他方、享楽はリアルな身体によって定義される(ラカンのファルス享楽とは実際はファルス欲望である)。要するに欲望は享楽に対する防衛だが、女性の場合、男とは異なりこの防衛に格段に難渋するだろうことは想像に難くない。もともとアポロンはディオニソスを支配しえない。常に残滓がある。だが女性の場合はことさらそうであるだろう。



この図のベースとなる図式は次の通り。


(異者文献)