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2020年8月14日金曜日

三段階の享楽

ああごめんなさい。最近別のことで忙しかったので。ご返事します。以下の通りです。


◼️去勢としての享楽(- J)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(享楽の控除)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».]. (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)

◼️穴としての享楽/穴埋めとしての剰余享楽
装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
あなた方が知っているように、ラカンは享楽と剰余享楽とのあいだを区別 [distinguera la jouissance du plus-de-jouir.]した時、形式化をいっそうしっかりしたものにするようになった。なぜラカンは区別したのか、空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽  [la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir] を? その理由は対象aは二つを意味するからである。生き生きとした形で言えば、対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon] である。

対象aが示しているのは、「中心にないものとしての不在[l'absence de ce qu'il n'y a pas en ce centre])と「その不在を埋め合わせる穴埋め [le bouchon qui comble cette absence]」の両方である。したがって、対象aは二つの顔を持つ。ポジの顔は穴埋め le bouchonである。もう一つの顔は、不在 un absence、控除 un moinsと等価である。これは対象aが去勢 castrationを含んでいることを示す記述に見出される。われわれは対象aを去勢(- φ) を含んだものとして置く。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)

◼️去勢=穴
-φ [去勢]の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un,- 9/2/2011)

疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽喪失の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)


◼️死としての享楽
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。[j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. ](ラカン、S20、08 Mai 1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort …もっとましな訳語はないものだろうか。「dérive 漂流(さまよい)」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES, 1988)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)


以上、次の通りです。




最底部の享楽=死は、原享楽と呼んでもよいです。この原享楽はフロイトの「原ナルシシズムの原像」のことです。