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2020年10月18日日曜日

粗雑な、あやまった知覚

 

スワンが祖母を思うときのような愛」云々とは記念碑的超トッテモ書き間違いでしょうが、念のために、「話者」はけっして「懐かしく」祖母を想起していません。別の意味での「拷問」にかかっています。➡︎心の間歇文献


私はすでに理解していたが、粗雑な、あやまった知覚だけが、すべては対象のなかにあると思わせる、しかしすべては精神のなかにあるのだ。私は実際に祖母を失ってから何か月もあとで、現実的に祖母を失ったのであった。私はすでに見てきたのだ、私または他の人々が相手からつくりあげている観念にしたがって、相手の人間の様相が一変するのを。だから、たった一人の人間も、その人間を見ていた人たちの数にしたがって何人もの人間になった。

Je m'étais rendu compte que seule la perception grossière et erronée place tout dans l'objet, quand tout est dans l'esprit ; j'avais perdu ma grand'mère en réalité bien des mois après l'avoir perdue en fait, j'avais vu les personnes varier d'aspect selon l'idée que moi ou d'autres s'en faisaient, une seule être plusieurs selon les personnes qui la voyaient (プルースト「見出された時」)


その私が、かつてシャン = ゼリゼで予感し、それ以来もっと強く感じたことは、 ある女に恋するとき、われわれは単に彼女のなかにわれわれの魂の一状態を投影しているにすぎないということ、したがって、たいせつなのは、女の価値ではなく、われわれの魂の状態の深さであるということ、そしてある平凡な少女でも、彼女がわれわれにあたえる感動は、われわれ自身のなかのさらに内奥の部分をーーすぐれた人と話しているとき、いやその人の作品を感心してながめているとき、われわれがあたえられる快感よりも、もっと個人的な、もっと深遠な、もっと本質的な、われわれ自身の内部をーーわれわれの意識に浮かびあがらせることができるということであった。

J'avais autrefois entrevu aux Champs-Élysées et je m'étais rendu mieux compte depuis qu'en étant amoureux d'une femme nous projetons simplement en elle un état de notre âme ; que par conséquent l'important n'est pas la valeur de la femme mais la profondeur de l'état ; et que les émotions qu'une jeune fille médiocre nous donne peuvent nous permettre de faire monter à notre conscience des parties plus intimes de nous-même, plus personnelles, plus lointaines, plus essentielles, que ne ferait le plaisir que nous donne la conversation d'un homme supérieur ou même la contemplation admirative de ses œuvres. (プルースト 「花咲く乙女たちのかげに」)



と引用してもさらなる誤読誤解粗雑錯乱等を恐れるので、念のため20回以上は引用している筈のドゥルーズの簡潔な文もこの際、付け加えておきます。


愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)



断言がオキライなようですが、私のそれほど性能のよくない頭で、40年ほどかかったなかで「断言」をしているのです。


上の内容が難しいようでしたら、手始めにお手元のバルトでも舐めてみたらどうでしょう。大切なのは骨までしゃぶることです。


わたしが欲しているのはわたしの欲望であり、愛の対象というのはそのだしになってきたにすぎない c'est mon désir que je désire, et l'être aimé n'est plus que son suppôt。…わたしはイマージュを「想像界」の生賛にする。したがって、いつの日かあの人をあきらめるときが来ても、そのときわたしを把える激しい喪は、「想像界」そのものの喪あるだろう。それこそがわたしの愛したものであったからだ。愛の喪失を涙するのであり、特定の彼/彼女を思って涙するわけではない。je pleure la perte de l'amour, non de tel ou telle。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「恋に恋する Aimer l'amour」1977年)


今後オヘンジは遠慮させていただきたくご容赦クダサイ。