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2020年10月29日木曜日

超人は悪魔である

 このところニーチェをいくらか引用しているのだが、今回はとても厄介な語「超人」について、ニーチェが1888年に『ツァラトゥストラ』(1883-1885年)を振り返って言っていることを掲げよう。もっともこれは超人の一つの相であり、これがすべてではまったくない(私にはニーチェの超人は、後にフロイトが形式化した超自我やエスに相当するものを言っているようにさえ見えることがあるが、その話にはここでは触れない)。


超人Übermensch]という語は、「近代」人、「善」人、キリスト教徒、およびその他のニヒリストたちと対立する最高に出来のよい人間のタイプを言いあらわすものでーーこの語が、道徳の絶滅者であるツァラトゥストラのような人物のロにのぼると、きわめて意味の深いものとなるのだがーーそれが、ほとんど至るととろで、しどく無邪気に、ツァラトゥストラ という形姿によってあらわされているものとは反対の価値を意味するものとして解されている。たとえば、より高い種類の人間の「理想主義的」タイプ、なかば「聖者」で、なかば「天才」であるひとつのタイプとしてというふうに。……


また、別のとんまな学者は、この語を楯にとって、ダーウィン 主義の嫌疑をわたしにかけた。「英雄崇拝」、知らずしらず心ならずも大のにせがねづくりになってしまったカーライルのあの思想、わたしがあれほど意地悪く拒否した「英雄崇拝」を、この語の中に認めると言う者さえ出てきた。「超人」の例なら、パルジファルなどより、チェザレ・ボルジアのようなタイプの人間を探した方がいい、とわたしがある人にささやいたら、その人は、自分の耳を信じようとしなかった。(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなによい本を書くのか」1888年)


ツァラトゥストラは、楽天家は厭世家と同様にデカダンであり、おそらくはいっそう有害であるととを掴んだ最初の人間であるが、こう言っている。「善人はけっして真実を語らない。いつわりの岸べといつわりの安全とを、善人たちは君たちに教えていたのだ。君たちは、善人たちの嘘のなかで生まれ、それにかくまわれていたのだ。一切は善人たちによって、徹底的にいつわられ、曲げられている。[gute Menschen reden nie die Wahrheit. Falsche Küsten und Sicherheiten lehrten euch die Guten; in Lügen der Guten wart ihr geboren und geborgen. Alles ist in den Grund hinein verlogen und verbogen durch die Guten]」と。


世界は幸いなことに、ただ善良であるだけの畜群がそこでちっぽけな幸福を見いだそうとするような、そんなけちけちした本能を見越して建てられてはいない。万人が「善人」に、畜群に、お人よしに、善意的なものに、「美しき魂」にならねばならないとかーーもしくは、ハーバート・スペンサー氏の希望にかなうように、利他的にならればならないと要求することは、生存からその偉大な性格を奪うことにほかならない。人類を去勢して、あわれむべき宦官の状態に引き下げることにほかならない。ーーしかもこれがいままで試みられてきたととなのだ!……道徳と呼ばれていたことなのだ!……この意味で、ツァラトゥストラ は、善人たちを、あるいは「末人」と呼び、あるいは「終末の開始」と呼ぶのである。何よりも、彼は善人たちをもっとも有害な人種と感ずる。それは、彼らが真理を犠牲にし、また未来を犠牲にして、おのれの生存をつらぬくからである。〔・・・〕


善人についての最初の心理学者ツァラトゥストラは、ーー従ってーー悪人の友[ein Freund der Bösen]である。デカダンス種の人間が最高種の位にのし上がったのは、その反対の種、すなわち確信をもって生きている強力な種類の人間を犠牲にすることによってのみ、起こりえたのである。畜群が汚れのない徳の栄光につつまれて輝くためには、例外人は悪人に貶められるほかはない。欺瞞があくまでも「真理」という名称を自分のその光学のために要求するとすれば、真に誠実な者は、最悪の名称のなかに編入されるほかはない。ツァラトゥストラのことばには、この点について何のあいまいさもない。彼は言う。善人たち、「最善の者たち」の正体を見ぬいたというそのことが、自分に人間一般に対する恐怖心を与えたのである。この嫌悪から自分には翼が生えたのだ、「はるかな未来へ飛瑚する」翼が、と。ーー彼は隠そうとしない。彼のような型の人間、相対的に超人的な型の人間は、ほかならぬこの善人たちと対比して超人的なのだということ、そして善人たち、正義の人間たちは、この超人を悪魔と呼ぶだろうということを……[―er verbirgt es nicht, dass sein Typus Mensch, ein relativ übermenschlicher Typus, gerade im Verhältniss zu den Guten übermenschlich ist, dass die Guten und Gerechten seinen Übermenschen Teufel nennen würden ...](ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私は一個の運命であるのか」)




次にフロイトにおける超人である。




われわれの多くのものにとっては、知的活動の現在の高い水準と倫理的昇華へと人間を引き上げ、さらに「超人 Übermenschen」にまで発展することを約束するはずの完成への欲動[Trieb zur Vervollkommnung ]が、人間自身の中にあるという信仰を断念することは困難であろう。しかし私は、このような内的欲動[inneren Trieb]を信じないし、このような「有益なイリュージョンwohltuende Illusion」をまもる手段を知らない。


人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人においに 完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。


抑圧された欲動[verdrängte Trieb] は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む ungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。


しかし、おそらく本当かもしれない次のことについて、ごく簡単に示唆しておこう。すなわち、つねに有機的なものをより大きな統合にまとめあげるエロスの努力は、確認しがかたい「完成欲動 Vervollkommnungstrieb」を代理する働きをもっているにちがいない。つまりそれは、抑圧の作用と相まって、「完成欲動」に帰せられる諸現象を説明することができるにちがいない。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)



さらにこうも引用しておこう。



私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1888年)

荒々しい「自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動 」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。Das Glücksgefühl bei Befriedigung einer wilden, vom Ich ungebändigten Triebregung ist unvergleichlich intensiver als das bei Sättigung eines gezähmten Triebes. (フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)

蠢動(欲動蠢動 Triebregung)は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、14  Novembre  1962)



………………………


◼️付記



ニイチェは、みずから箴言の達人だと言っているが、言葉どおりにとってはよくない。外観が箴言や警句に似ていることなどなんでもない。彼は人を戒めてもいないし、みずからしゃれてもいない。そんなことは彼にはできない。私にいつも彼の断片的表現の真の力と思われるものは、それがあれこれの意見ではなく、完膚なきまでに分析され、観察された対象のそのままの形であるという印象から来る。もしそれが意見であれば、限界まで行き着くその徹底性によって、反対の意見を招くように慄えている印象から来るのである。彼の文章は、皮を剝がれ、風に吹かれた彼の哲学的感受性という器官そのままの形であり、それに眼があり、私の心を見透す。

「私はニイチェを読む、彼を読むに必要な悪意をもって」とヴァレリイは言っている。これはニイチェの知らぬフランス風のアイロニイだ。彼は、彼が腹を立てようと立てまいと、ルーテルの血筋をひいている。そういう血筋についての日本人としての一種の不感症の意識が、ニイチェを読むには、およそ女々しさを知らぬ善意が必要だ、と私に言うようである。ニイチェは暴露心理学の名人ではない。それは彼にはあんまりやさしい芸である。心理は暴露されるが、ひたすら隠そうとしているものが、常にそこにある。それは真理の絶対性であり、そこにはドイツの伝統的精神の血が流れている。頑固な執拗な容赦のない精神の渇望が、憧憬がある。これを、彼の「悪意の知恵」のうちに、いつも感じているのには強い善意を要する。〔・・・〕


反道徳とか、反キリストとか、超人とか、ニヒリスムとか、孤独とかいう言葉は、ニイチェの著作から取り上げられ、誤解され、濫用されているが、これらの言葉は、近代における最も禁欲的な思想家の過剰な精神力から生れた言葉だと思えば、誤解の余地はないだろう。彼は妹への手紙で言っている、「自分は生来おとなしい人間だから、自己を喚び覚ますために激しい言葉が必要なのだ」と。ニイチェがまだ八つの時、学校から帰ろうとすると、ひどい雨になった。生徒たちが蜘蛛の仔を散らすように逃げ還る中で、彼は濡れないように帽子を石盤上に置き、ハンケチですっかり包み、土砂降りの中をゆっくり歩いて還って来た。母親がずぶ濡れの態を咎めると、歩調を正して、静かに還るのが学校の規則だ、と答えた。発狂直前のある日、乱暴な馬車屋が、馬を虐待するのに往来で出会い、彼は泣きながら走って、馬の首を抱いた。ちなみに彼はこういうことを言っている、「私は、いつも賑やかさのみに苦しんだ。七歳の時、すでに私は、人間らしい言葉が、決して私に到達しないことを知った」。およそ人生で宗教と道徳くらい賑やかな音を立てるものはない。ニイチェは、キリストという人が賑やかだ、と考えたことは一度もない。(小林秀雄「ニイチェ雑感」)



隠遁者[Einsiedler]は、かつて哲学者ーー哲学者は常にまず隠遁者であったとすればーーが自己の本来の究極の見解を著書のうちに表現した、とは信じない。書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか[schreibt man nicht gerade Buecher, um zu verbergen, was man bei sich birgt? ]。実に彼は次のように疑うであろう。およそ哲学者は“究極的かつ本来的な[letzte und eigentliche]“見解をもちうるのか、哲学者にとってあらゆる洞窟の背後に[hinter jeder Hoehle ]、なお一層深い洞窟が存し、存しなければならないのではないか、表層の彼岸に[ueber einer Oberflaeche]、より広況な、より未知の、より豊かな世界があり、あらゆる根拠[Grund]の背後に、あらゆる“根拠づけ[Begrúndung]”の背後に一つの深淵[ein Abgrund ]があるのではないか、と。〔・・・〕かつまた次のことは疑うべき何ものかである。すなわち「哲学はさらに一つの哲学を隠している。あらゆる見解もまた一つの隠し場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面 である[Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.]」(ニーチェ『善悪の彼岸』289番、1886年)