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2020年12月19日土曜日

女はゾーエーである

 


ロバート・グレーヴスが定式化したように、父自身・我々の永遠の父は、白い女神の諸名のひとつに過ぎない。 comme le formule Robert Graves, le Père lui-même, notre père éternel à tous, n'est que Nom entre autres de la Déesse blanche,(Lacan, AE563, 1er septembre 1974)


このラカンの記述を元に、ジャック=アラン・ミレールはときに「母の名[le nom de la mère]」という表現を使う。


われわれが父の名による隠喩作用を支える瞬間から、母の名は原享楽を表象するようになる。à partir du moment où on fait supporter cette opération de métaphore par le Nom-du-Père, alors c'est le nom de la mère qui vient représenter la jouissance primordial (J.-A. Miller, CAUSE ET CONSENTEMENT, 23 mars 1988)




もっともフロイトにも原初の母の名と翻訳できる記述がないではない。


歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。〔・・・〕もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた。Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, […] Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter (フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年)


ラカンによる翻訳は次の通り。


一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970)

問題となっている女というものは神の別の名である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu (ラカン、S23、18 Novembre 1975)


大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…


「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  (ラカン, S23, 16 Mars 1976)


要するに母なる女が原超自我である。


………………


二つの名著、バッハオーフェン『母権制』(1861年)、ロバート・グレーヴス『ギリシア神話』(1962年)、そしていくらかいかがわしいところもないではないが、二つの名著にその多くを依拠しているのが明らかなバーバラ・ウォーカー『女性の神話・伝承事典 』 (1983年)ーーこの三著を基本文献とした「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年)という私にはとても面白い論がある。もともと実践女子大学での講義がベースらしい。


ここではゾーエーの記述をめぐる二箇所を掲げる。


◼️月女神の「新月→満月→旧月」の循環原理


月女神によって創造された無限に広がる大宇宙、無限に広がる大海原と「母なる大地」、そして、女性だけの能力の出産と育児、「有限の命(ビオス bios)」を母から娘、娘から孫娘へと繋ぐ「無限の命(ゾーエー zoe)」の神秘。「創造の言葉」logos から見離された男性たちはこの万物の創造のプロセスから完全に疎外されていた。「創造→維持→破壊」は、月母神、大地母神、母親だけの特権であった。宇宙原理、自然原理、女性原理の前に、男性たちは成す術が全く無かった。女性たちは、宇宙と大地と女性が、「創造→維持→破壊」の三相一体の母性力に従って連動しており、月女神がこの原理を支配していると信じていた。夜空で仰ぎ見る「新月→満月→旧月」の周期が、なによりのその証拠であった。


このようなものの見方、考え方、感受性の心の習慣(habitus mentalis)は、インドからヨーロッパの地域まで広がっていた。月女神のことを、例えばインドでは Kali Ma、ギリシアでは Eurynome、キプロスでは Aphrodite、ローマでは Lat、Luna、Venus、シリアでは Astarte、Asherah、エジプトでは Isis と呼び崇拝していた。そもそもエジプトは「月の国」のKhemennu として始まり、ローマ帝国の前は、月女神 Lat が創り出した国のLatium であった。ギリシアでも Leda、Lada、Leto、Latona の呼称で知られていた。Aphrodite の月女神の呼称は Lat の綴りを入れたGalatea で「乳を与える女神」であったし、月女神のエジプトの Hathor、シリアの Astarte の添え名でもあった。ケルト人もゴート人も「月女神の乳の国」のGalatia の出で、月女神 Galata を崇拝していた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf


「創造→維持→破壊」の循環の三相一体の「死と再生」原理を信じていた時代、女性は母から娘、娘から孫娘へと自分自身の生命が永遠に続く「無限の生命(ゾーエー zoe)」を実感できた。他方、男性は一度限りの「有限の生命(ビオス bios)」でしかないコンプレックスを抱いていた。そのために、男性は女性になろうとして、擬娩(convade)、女装(transvestism)し、さらに、去勢(castration)という不自然なことをしたのである。Kronos の去勢と Aphrodite の誕生も、またZeus の太腿の話も去勢を意味していた。去勢することによって子を産みたい。その強い願望が男神たちの去勢による出産神話を創ったのである。これは、インド・ヨーロッパ言語文化圏だけでなく、世界中の神話に見ることができる。そして、仕舞には父神が去勢すれば母神の能力がつき、造物主になれるという創世神話に発展したのである。後に、去勢の儀式は子どもにも及び、割礼をし、経血のシンボルの塩でもみ、子をもうける力を授けたのである。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf




古代ギリシア語には「生」を表現する二つの語、「ゾーエー[Zoë]」(永遠の生)と「ビオス [Bios]」(個人の生)があった。アガンベンのはこのゾーエーを「剥き出しの生」としたが、ここで示すゾーエーは、アガンベンのそれではなく、カール・ケレーニイ解釈のゾーエーである。ケレーニイはバッハオーフェンに大きく影響を受けた歴史家である。


ゾーエー(永遠の生)は、タナトス(個別の生における死)の前提であり、この死もまたゾーエーと関係することによってのみ意味がある。死はその時々のビオス(個別の生)に含まれるゾーエーの産物なのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス 破壊されざる生の根 』1976年)

ゾーエー Zoë はすべての個々のビオス Bios をビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根』1976年


ーーディオニュソス論であり、ケレーニイのなかにはニーチェがいる。


おまえたちは、かつて悦 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。


Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -


……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――


- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第10節、1885年


ーー先に掲げたケレーニイの文とそっくりであるのがすぐにわかる筈である。


さらにこう引用すればいっそう明白だろう、ニーチェの実質的な最後の絶唱のひとつである。


ディオニュソス的密儀のうちで、ディオニュソス的状態の心理のうちではじめて、古代ギリシア的本能の根本事実はーーその「生への意志[Wille zum Leben]」は、おのれをつつまず語る。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか?  永遠の生であり、生の永遠回帰である[Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens]。過去において約束され清められた未来である。死の彼岸[über Tod]、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。


このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛Wehen der Gebärerin」が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・

創造の永遠の悦 [die ewige Lust des Schaffens] があるためには、生への意志[Wille zum Leben]がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能が、生の未来への、生の永遠性への本能[In ihnen ist der tiefste Instinkt des Lebens, der zur Zukunft des Lebens, zur Ewigkeit des Lebens]が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・[-der Weg selbst zum Leben, die Zeugung, als der heilige Weg...](ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第4節『偶像の黄昏』1888年)


女がゾーエーであるとは、女は永遠の生、女は不死の生の体現者だということになる。これは現代ではひどく奇妙な言い方だろうが、いくつかの古代史の研究成果からはこういった命題が生まれてくるのである。


現代の女性でも月経などによってそれをかすかにでも感じとっている方がいるはずである。



女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。〔・・・〕元来、女の身体は一つの使命しかない。受胎である。〔・・・〕


自然は種に関心があるだけだ。けっして個人ではない。この屈辱的な生物学的事実の相は、最も直接的に女たちによって経験される。ゆえに女たちにはおそらく、男たちよりもより多くのリアリズムと叡智がある。


女の身体は海である。月の満ち欠けに従う海である。女の脂肪組織[fatty tissues] は、緩慢で密やかに液体で満たされる。そして突然、ホルモンの高潮で洗われる。〔・・・〕


かつて月経は「呪い」と呼ばれた。エデンの園からの追放への参照として。女は、イヴの罪のために苦痛を負うように運命づけられていると。


ほとんどの初期文明は、宗教的タブーとして月経期の女たちを閉じ込めてきた。正統的ユダヤ教の女たちはいまだ、ミクワー[mikveh]、すなわち宗教的浄化風呂にて月経の不浄を自ら浄める。


女たちは、自然の基盤にある男においての不完全性の象徴的負荷を担っている。経血は斑、原罪の母斑である。超越的宗教が男から洗い浄めなければならぬ汚物である。この経血=汚染という等置は、たんに恐怖症的なものなのか? たんに女性嫌悪的なものなのか? あるいは経血とは、タブーとの結びつきを正当化する不気味な何ものかなのか?

私は考える。想像力ーー赤い洪水でありうる流れやまないものーーを騒がせるのは、経血自体ではないと。そうではなく血のなかの胚乳、子宮の切れ端し、女の海という胎盤の水母である。


これが、人がそこから生まれて来た冥界的母胎である。われわれは、生物学的起源の場処としてのあの粘液に対して進化論的嫌悪感がある。女の宿命とは、毎月、時と存在の深淵に遭遇することである。深淵、それは女自身である。


女に対する歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。〔・・・〕


西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)