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2020年12月27日日曜日

ユーレイはキライだよ

 なんだい、自然淘汰が気に入らないのか。ボクなんか元気が出るほうだけどな。

要するに自殺というのは自然淘汰だと思うんです。昆虫とか動物には、自殺はないでしょう。人間にあるというのは、人間だけにある自然淘汰ですよ。自殺は、誰でもそうです。ただ三島さんを自然淘汰に追い込んだのは、武ではなくて文で、現代の文学の世界が彼を自然淘汰したのだとおもいますが、つまり、早いはなしが日本の文壇が彼を自然淘汰したのだと思います。彼の作品なんてまったく、少年文学で私はにせものだと思います。それを三島さんは才能があるから気がついたのですねえ。それで、全然別の道で自殺を選んだのです。文から追い出されたのです。(深沢七郎『滅亡対談』ーー「ギター・軽演劇・文学・自殺」(古山高麗雄))



深沢七郎がダメだったら安吾ならどうだい?



芥川は太宰よりも、もっと大人のような、利巧のような顔をして、そして、秀才で、おとなしくて、ウブらしかったが、実際は、同じ不良少年であった。二重人格で、もう一つの人格は、ふところにドスをのんで縁日かなんかぶらつき、小娘を脅迫、口説いていたのである。 


文学者、もっと、ひどいのは、哲学者、笑わせるな。哲学。なにが、哲学だい。なんでもありゃしないじゃないか。思索ときやがる。 


ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい。六十になっても、人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。大人ぶるない。冥想ときやがる。 


何を冥想していたか。不良少年の冥想と、哲学者の冥想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、大人の方が、バカなテマがかゝっているだけじゃないか。 


芥川も、太宰も、不良少年の自殺であった。


不良少年の中でも、特別、弱虫、泣き虫小僧であったのである。腕力じゃ、勝てない。理窟でも、勝てない。そこで、何か、ひきあいを出して、その権威によって、自己主張をする。芥川も、太宰も、キリストをひきあいに出した。弱虫の泣き虫小僧の不良少年の手である。


ドストエフスキーとなると、不良少年でも、ガキ大将の腕ッ節があった。奴ぐらいの腕ッ節になると、キリストだの何だのヒキアイに出さぬ。自分がキリストになる。キリストをこしらえやがる。まったく、とうとう、こしらえやがった。アリョーシャという、死の直前に、ようやく、まにあった。そこまでは、シリメツレツであった。不良少年は、シリメツレツだ。


死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい。


人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。


生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。


死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。


然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。(坂口安吾「不良少年とキリスト」1948(昭和23)年)




《死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである》ってのを外しても、《生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。》ーーってのはどうだい?


安吾がバカにしてる芥川だってこう言ってるよ、自殺の直前にさ。


ニイチエは宗教を「衛生学」と呼んだ。それは宗教ばかりではない。道徳や経済も「衛生学」である。それ等は我々におのづから死ぬまで健康を保たせるであらう。(芥川龍之介「西方の人」昭和二年七月十日)


ーー《宗教は衛生学と呼んだほうがよい[”Religion”, die man besser als eine Hygiene bezeichnen dürfte]》 (ニーチェ『この人を見よ』)


ま、最低限、次の程度の「真理」はしっかり認知しといたほうがいいんじゃないかね。

性欲動の発展としての同情と人類愛。復讐欲動の発展としての正義。[Mitleid und Liebe zur Menschheit als Entwicklung des Geschlechtstriebes. Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ](ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )



ーー発展[Entwicklung]ってのは、フロイト用語だったら昇華だろうな。



われわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること [Libidoverschiebungen]、これによって、われわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標[Triebziele]をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにすることである。この目的のためには、欲動の昇華 [Sublimierung der Triebe] が役立つ。


一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快の量を充分に高めることに成功する場合である。…芸術家が制作――すなわち自らの想像力の具現化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なものである。…だがこの種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。…この種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動[coarse, primary instinctual impulses]を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体[Leiblichkeit]までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年)