松尾橋近くの西京に12年ほど住んだので、京都の神社やお寺には馴染みがある。歩いて5分ほどのところに梅宮大社がありーー大社といってもとても小さな、お酒の神様を祀る、観光客など滅多に訪れない寂れた神社だったがーー散歩がてらに、煙草を買いにいく途中に、しばしば訪れた。ここには梅園があり、桜よりも梅のほうをずっと愛するようになったのは梅宮大社のせいだ。もうひとつ梅で名高いのは北野天満宮であり、この神社にもとても馴染んだ。巫女が梅を摘んでいるのまで見に行って彼女らに魅せられた。
京都で最もうつくしいお社は北野神社である。屠蘇の酔いにまぎれていうのではない。けれども私の酔眼には、北野のお社は猶いっそう美しい。 あの長い石だたみの、白い参道がいい。参道のつきるところで石段の上に見上げる門は、お参りにきた人をいかにも迎える様子をしていて、すこしも威圧的でない。〔・・・〕 |
銅製や石彫りの幾頭かの牛の目が柔和に光っているのを見ながら、本殿に近づいて高い敷居をまたぎ、一気に鏡のまえに行く。この間合いが、よその神社では、ちょっと味わえないほど爽快である。ここには、逆立ちで歩いても、とんぼ返りをしながら横切っても、いっこう咎めがなさそうなほど、気楽な、くつろいだ広がりがある、しかも決してそういう曲芸をやるわけにはゆかず、歩幅ただしく、さっさと歩かねば恰好がつかないような、なんともいえない品位をそなえた空間の味わいがある。 回廊をひとめぐりして、次は本殿の外まわりを歩く。檜皮葺のこのお社の屋根の美しさは、視覚的というよりも味覚的なものだ。まるで京菓子のように、舌でこの屋根を味わいつつ、建築をなめまわして、何べんもぐるぐると歩く。格子の窓や軒端の彩色は、あでやかで、しかも渋い。この色がまさに京都の色だ、と正月の礼者にありがちな屠蘇の酔いをいいことにして、私も少し大胆につぶやく。……(杉本秀太郎「北野天満宮」『洛中生息』1976) |
そう、梅宮大社も北野天満宮も威圧的なところのない神社だった。
ところで俗信として、宮=子宮、参道=産道 、宮参り=胎内回帰というのがかつてからある。最近でも福岡の由緒正しそうな鳥飼八幡宮のウエブサイトに次の記事がある。 |
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参道は、お産の時の産道を表していると言われています。 鳥居は、女性が足を開いて立っている姿、つまり股を表し、社殿は、女性の子宮にあたると言われています。 神社をお宮というのはそのためです。 参拝とは、参道(産道)を通り、お宮(子宮)でお参りをし、産道を通り鳥居を出て、再び外の世界へ出るということなのです。(鳥飼八幡宮、2019年12月28日) |
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ああ日本のみなさんは羨ましい、海外に住んでいて最も残念に思うのは、あの女性器にお詣りできないことである。前回「超自我の核は女性器である」を記したが、この羨望に促されてである。 多くの方はお正月にはあの原超自我にお詣りなさることであろう。私にはその機会がない。
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もっとも私の住んでいる土地でも代わりのものがないわけではなく、やむなく別の仕方で拝むのである。