日本の文士というのは一般論として言えば、こういうことなんだろうな。
日本の文学は、少なくともある程度まで、西洋の哲学の役割を荷ない(思想の主要な表現手段)、同時に、西洋の場合とはくらべものにならないほどの大きな影響を美術にあたえ、また西洋中世の神学が芸術をその僕としたように音楽さえもみずからの僕としていたのである。日本では、文学史が、日本の思想と感受性の歴史を、かなりの程度まで、代表する。〔・・・〕 中国人は普遍的な原理から出発して具体的な場合に到り、先ず全体をとって部分を包もうとする。日本人は具体的な場合に執してその特殊性を重んじ、部分から始めて全体に到ろうとする。文学が日本文化に重きをなす事情は、中国文化に重きをなす所以と同じではない。比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的となったのである。(加藤周一『日本文学史序説』1975年) |
で、こういった文士はいつ頃死滅したか、と言えば、たぶん1970年の三島の自決頃だろうな。三島には直接関係がないよ、と言う人もいるだろうから、学園紛争以降と言ってもいいけど。 で、哲学まで担う日本の文学者は、鴎外漱石芥川もそうだろうけど、やっぱり小林秀雄が大きいんだろうよ。 |
小林秀雄の文章は、おそらく芸術的創造の機微に触れて正確に語ることのできた最初の日本語の散文である。その意味で批評を文学作品にしたのは、小林である。しかしそれほどの画期的な事業は、代償なしには行われない。代償とは、人間の内面性に超越するところの外在的世界――自然的および社会的な世界――の秩序を認識するために、有効で精密な方法の断念である。(加藤周一『日本文学史序説』1975年) |
その後、批評の世界では吉本隆明や柄谷行人などが小林秀雄の役割を担おうとしたことがあったにせよ、バブル期以降、完全消滅だな。むかしを懐かしんでもしょうがないんだけどさ。今では小説の世界でも批評の世界でも鼻くそみたいなヤツしかいないよ、ーーシツレイ!
(実際、安吾論やらニーチェの翻訳やらをしておいて、なんであんな反安吾、反ニーチェなんだろ、と感じざるをえないキャベツ頭の「作家」がいるからな。ま、他にもそんなのばっかりさ)
上の話とはあまり関係がないかもしれないけど、小林秀雄の『作家の顔』に収められている作家論ってのはどれもいいね、志賀直哉論、谷崎潤一郎論、正宗白鳥論、菊池寛論、川端論等々。どれも褒めてるんだな、批評の対象をとっても読みたくさせる批評だね。ここでは佐藤春夫論を引用しておこう。
改造社版「佐藤春夫全集」のあちらこちらを読みながら何を書こうかと思い惑っている。期待した未読の作品に失望したり、あんなものだろうと思っていた作品を再読して意外な性格を発見したり、漠然と読んでゆく片々たる雑文章に作者から肩をたたかれるような思いをしたりしているうちに、僕はしだいに何を書こうかと思いまどって疲労してきたのである。と言ってこの作者に対する以前からの考えが変わったわけではない、ただその考えがそうしているうちにいよいよ複雑になってきてしようがないのだ。もっとも全集を前にしてこういう疲労を感じさせぬ作家はいっこうおもしろくははないのだが。 作者はこの全集の序文を書いている。ひと言で翻訳すると「われながらいろいろなことを書いたものだなあ」という意味になると僕は思う。誤訳かもしれないが、つまりはそう翻訳したいほどこの全集を通覧しつつ僕は実にいろいろなことをやってみた人だなあと感じた。 |
短篇あり長篇あり詩あり童話あり、脚本・批評・随筆・紀行・実話・翻訳、それぞれ面目を異にして、行く処可ならざるなき才能の氾濫だ。たがこの百花繚乱たる園にはまたいたる処作者の吐息が聞かれる、「薔薇、汝病めり」と。処女作「田園の憂鬱」は氏の才能の過剰なるがゆえに培った奇葩であった。以来氏に恵まれた豊饒な才能は、氏を養うよりもむしろ氏を糧としている概がある。作家にとって才能とは「嫌うべき特権」だ、とシェストフは言ったが、佐藤氏などは現代作家中最もこの特権のためにみずから苦しんでいる人ではなかろうか。今日に至って惟うに氏は己れの才能から幸福をもらう決心はつかないでいる。才能は依然として氏にとって一つの重荷なのではあるまいか。 |
氏に「芥川龍之介を哭す」という文章がある。才能の重圧の下に玉砕したこの友人を悼んだ時、佐藤氏は、己れの才能の重荷を痛感してはいなかったか。おそらく自分の才能はこの友人の場合とは比較にならぬほど狡猾に自分を裏切っているかもしれぬことを聡明な氏は感じていたはずである。佐藤氏は芥川氏を窮屈なチョッキがぬげぬ人と評したが、芥川氏は佐藤氏を、あんまり浴衣がけだと評したそうだ。僕としては佐藤氏の浴衣がけにしばしば涼風が訪れたとは信じないのである。 人々が芸術のための芸術という言葉を未だ発明しなかった時代、社会人としての広義な道徳上の目的が、芸術家の祈願とよく調和を保っていた時代、風俗も文化も芸術も同じ方向を目指していたような時代、そういう時代には、作家らにどうして恵まれた才能のゆえに苦しむなどということがあり得ただろうか。才能の不足を嘆じても、豊富な才をもてあますような事態が考えられたであろうか。 |
作家が己れの才能に裏切られる悲劇は飽くまで今日の事件である。今日のように、さまざまな問題が提出されて、ものを見る立場というものが、限りなく多様となるに従って、かつて少なくとも芸術家自身にとっては自明であった芸術家の存在だとか、作品をものす動機だとかいうものの反省を、作家らはいよいよ強制されてくる。反省を強いられる時、作家は作家の着物をぬぎすてて単なる反省する一個の人間と、一個の社会人とならねばならぬ。芸術的という特殊なものの見方を捨ててみればならぬ。捨ててみなければ、冷酷な反省というものは成り立たぬからだ。ところがこの反省の結果、問題を解決する場所は依然として作家にとっては芸術作品以外にはない。解決は理論の上の解決であっても行為の上の解決であってもならないのである。この素朴な一種のジレンマが今日の作家の戸口に横たわっている。この事情を心に置いてみれば、今日作家の才能の問題の性質はおのずからはっきりするであろうと思う。美意識の混乱も、芸術的才能という言葉が今日帯びる複雑な意味も、源を如上の事情に発している。一般社会情勢の逼迫が、芸術というものを一挙に葬り去るというがごとき好都合な事態を生んでくれない限り、作家も評家も芸術上の混乱を嘆く必要はないはずだ。芸術の混乱を芸術の貧困ないしは衰弱と取り違えなければよいのである。 |
今日ほど作家が己れ一人の秘密を守り難い時はない。作家はその羞恥心を白日の下に曝すことを強いられている。これを恐れるものは亡びねばならぬ。たとえば作家の技術上の問題をとって考えてみよ。この問題が今日ほとその専門的な厳を失って、非芸術な手で弄り廻されたことがあっただろうか。これに対して作家は腹を立てることができぬ。なぜならまず何を置いても作家自身この技術の威厳というものを疑わざるを得たなくなっているからだ。文学において特に然りである。 深刻に見れば作家の才能というものは言い難い伝統という地盤の上に、これも言い難い作家の血肉によって育った動かし難いあるものだ。この事情は今も昔も変わりはしないであろう。だが大事な点は、この動かし難いあるもののおそらくは必要以上の点検を、今日の作家が強制されているという点である。ここから豊富な才能は、その所有者に必ずしも幸福をもたらさぬという今日の逆説的な事態が生ずるのだ。 |
僕は佐藤氏の全集を読みながら、まず感じたものはこの才能の悲劇である。この園芸師ははたしてあらゆる変わり咲きを楽しんでいるか。花園は熟視すればたちまち陰惨な実験室と化けないか。 世人は佐藤氏を評して才人という。いかにもそうだ、氏は己れの才を信じない才人である。〔・・・〕 |
「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」は、佐藤氏の初期の代表作と言われているが、今度読み返してみて、初期の代表作にとどまらず、この姉妹篇は氏の全作中の逸品たるを失わぬと思った。ともに見事な青春の書である。言うまでもなく青春の書と僕が言うのは、この書にいわゆる青年らしさ、青春の大胆や野望や若々しさや虚栄や欺瞞があるというような消極的な意味ではない。この書が純粋な青年の心の歌だ、二度と還らぬ青春時というもののたいへん意識的な象徴だという意味だ。こういう意味での青春の書を持っている作家と持っていない作家とがある。平ったく言えば青春に大人となってしまってもう歌えなくなる歌を発見する作家と、青春を大人への段階と見なして疑わぬ作家とがある。それぞれ作家の人柄による。 |
佐藤氏のように心を傾けた青春の記録を持っている作家は、壮年期に至りこの思い出のために苦労するものである。もう二度とああいうものは書けない、しかしなんというものを書いただろう、と。青春の書の心いっぱいな表現に肉をつけ尾鰭をつける苦しみは遅々とした人目につかぬ苦しみであろう。一般にそうだが、佐藤氏の場合でも、この二つの青春の書では氏の独創性と表現の完壁性との幸福な一致がみられる。豊富な才能を抱きながらこの率福はすでに過ぎ去ったと感ずるくらい作家にとって痛ましいことはないのである。すなわち今日に至るまでの佐藤氏の姿ではあるまいか。 |
「都会の憂鬱」の付記中に氏は書いている。「私は生地で行きたいのだ。この間、象牙の塔から立ち退きを命ぜられたのだ」と。僕はこの言葉に嘘があるとは思わない。が、僕は「田園の憂鬱」が象牙の塔だとは思わぬし、「都会の憂鬱」が立ち退きを命ぜられた人の手になったものとも強く思わない。この二作の間に作者の人生観の革命が横たわっているとは思わぬのである。再読して前者の方がむしろ人間臭い気がした。氏のように企図というものに鋭敏なまた夢みることの俊敏な作家にあっては、企図の宣言はしばしば声が高すぎるものだ。氏のように意識的な作家は思い浮かぶ企図の明瞭さに酔うものである。氏の文学批評文の秀抜もここに由来する。ともあれ「都会の憂鬱」発表前後に氏を襲った一つの不安は以来氏につきまとって離れぬ。氏の言葉を借りれば「いかにして人生に肉迫すべきか」という思想的というよりむしろ審美的な戦は決して地道に一途に行なわれなかった。氏の才能がこれを許さなかった。戦は批評家にとってははなはだ迷惑な乱戦である。僕は氏の作品の一つ一つを辿るまい。一つ一つに見つかる佐藤氏の顔は仮面である。幾多の仮面を整理して氏のほんとうの顔に近づこうとすることは、僕には愚かに思われる。……(小林秀雄「佐藤春夫論」昭和九年六月) |