4年ほど前、ジジェク曰くの、ジャック=アラン•ミレールの現実界は、《厳密なラカニアンの立場からは、何かが途轍もなく間違っている From a strict Lacanian standpoint, something is terribly wrong with this line of reasoning》[参照]というのを読んで、この数年、ま、それなりにマジに追求してみたのだが、結局、ジジェクのほうが途方もなく間違っているのを見出したんだな、確信的に。でもジジェクの強い主張がなかったら真剣には追求しなかったし、いつまでも曖昧なままだったよ。強い主張はとっても大事だよ。
最近はもう追求することがなくなってつまらないね、そもそもラカンと言っても原理の部分では100年前のフロイトの原抑圧=固着と同じなんてね
後期ラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される〔・・・〕。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないリアルな症状である。…症状を読むことは、症状を原形式に還元することである。この原形式は、身体とシニフィアンとのあいだの物質的遭遇にある〔・・・〕。これはまさに主体の起源であり、書かれることを止めない。--《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire)(ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)ーー。我々は「フロイトの原抑圧の時代[the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung])にいるのである。ジャック=アラン・ミレール はこの「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心的装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。ここにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012) |
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分析経験の基盤、それは厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。fondée dans l'expérience analytique, […]précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, (コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年) |
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ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年) |
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年) |
現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004) |
要するに原抑圧=固着による異者が核心なので、そんなことは前回示した中井久夫が言ってることなんだな
一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
だから最近なんだかダルイよ、何か知的刺激を与えてくれることないかね。
政治ってのもな、トランプ応援団が騒いでも大して面白くないよ、爆弾でも使ってくれたら別だったんだが。
ところでなんでまだ日本ではハイパーインフレ起こらないんだろ、今年の楽しみはこれぐらいかな、もうひとつコロナで毎日千人単位で死ぬとかさ
異者としての身体 Fremdkörperは、破壊欲動を呼び起こす審級にもあるからな、
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
欲動蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung(Triebregung) est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、14 Novembre 1962) |
これがフロイトラカン理論の核さ。
なかなか飼い馴らせないんだな、ボクの場合。
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。 Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」第3節『偶然の黄昏』所収、1888) |
荒々しいwilden、「自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動 vom Ich ungebändigten Triebregung 」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年) |
自我の異郷にいるひとりの女は、暴れたくってしょうがないらしいや。
ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté. (Lacan, S25, 11 Avril 1978) |
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) |
いいなあ、あの女を家畜化できる人は。ボクは全然ダメだね
欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番) |
生への意志? 私はそこに常に力への意志を見出だす。Wille zum Leben? Ich fand an seiner Stelle immer nur Wille zur Macht. (ニーチェ「力への意志」遺稿、ー1882 - Frühjahr 1887 ) |
生への意志[der Wille zum Leben]ーーこれをわたしはディオニュソス的と呼んだのである。…それは恐怖や同情を避けずに乗り越えて、生成の永遠の悦そのものになることだ[die ewige Lust des Werdens selbst Zusein]、破壊の悦[die Lust am Vernichten]をも抱含しているあの悦に……(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第5節『偶像の黄昏』1888年) |