ボクは最近ジジェクをあまり引かないが、もともとはラカンと言えばジジェクのラカンしか知らなかったわけで、一般的にはーーラカンプロパでなければーーたとえば次のようなジジェクでいいよ。 |
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①私は私の大他者 my Other が欲望するものを欲望する。 ②私は私の大他者 my Other によって欲望されたい。 ③私の欲望は、大きな大他者 the big Other ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。 ④私の欲望は、リアルな大他者-モノreal Other‐Thing の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年) |
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注意点は、ジジェクは象徴界から現実界を見る傾向があり、現在の主流臨床ラカン派は現実界から象徴界を見る傾向がある(象徴界は現実界に対する防衛)ということだ。ーー《我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 》(J.-A. Miller ,Clinique ironique, 1993) 防衛とは、別の言葉で言えば、モノの昇華、あるいは欲動の昇華 [Sublimierung der Triebe]。ファルス化ーー言語化ーーと呼んでもよい。 で、④の「リアルな大他者-モノreal Other‐Thing」ーーmy desire is sustained by the abyss of the real Other‐Thingーーとは、基本的にはサントーム(原症状)のこと。 |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
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《欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》(ラカン, E853, 1964年)ーーこの意味は次の通り。すなわち、欲望は言語と繋がっている。この言語の領域にはコミュニケーションがあり、大他者への呼びかけがある。享楽が刻印されているモノの側は症状(リアルな症状=サントーム)である。Ça veut dire : le désir tient au langage et à ce qui, dans le champ du langage, là où il est communication, fait appel à l'Autre. […] Ce côté de la Chose, où s'inscrit la jouissance , c'est le symptôme, (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) |
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ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009) |
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そしてジジェクの①②③は、サントームの形式的封筒[l'enveloppe formelle]ーーフロイト用語ならリビドー固着の心的外被[psychische Umkleidung]。 |
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症状は隠喩である。対照的に、サントームは身体の出来事である。Le symptôme est la métaphore …. Le sinthome, au contraire, est un événement du corps〔・・・〕症状はサントームの形式的封筒である。le symptôme est l'enveloppe formelle du sinthome (Patricio Alvarez, Escabeau, 2016) |
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サントームの具体的価値は➡︎「簡潔版:S(Ⱥ)=超自我=原抑圧=固着」を見よ。 フロイト用語も絡めて基本用語を示せば次の通り。 上の享楽とはもちろん欲動(リアルなリビドー )ーー身体的な駆り立てる力ーーのこと。
もういくらか厳密に言えば、ȺとS(Ⱥ)を区別すべきだが、ここではそれを外して記述した。 ポール・バーハウ2004なら次の通り。 |