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2021年9月14日火曜日

寛容のパラドックスあるいは寛容の自殺(ポパーと渡辺一夫)

 ポパーか、渡辺一夫しか選択肢はない、この今のタリバンに対して。


◼️カール・ポパー『開かれた社会とその敵』(1945年)

「寛容のパラドックス」については、あまり知られていない。無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。Weniger bekannt ist das Paradoxon der Toleranz: Uneingeschränkte Toleranz führt mit Notwendigkeit zum Verschwinden der Toleranz. Denn wenn wir die uneingeschränkte Toleranz sogar auf die Intoleranten ausdehnen, wenn wir nicht bereit sind, eine tolerante Gesellschaftsordnung gegen die Angriffe der Intoleranz zu verteidigen, dann werden die Toleranten vernichtet werden und die Toleranz mit ihnen.


――この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。


ゆえに我々は主張しなければなない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利をWir sollten daher im Namen der Toleranz das Recht für uns in Anspruch nehmen, die Unduldsamen nicht zu dulden. (カール・ポパー『開かれた社会とその敵』第1 7章、1945年)





◼️渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」(1951年)

過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開された現実を眺めてみても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった実例をしばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容に対して不寛容になってよいというはずはない。割り切れない、有限な人間として、切羽つまった場合に際し、いかなる寛容人といえども不寛容に対して不寛容にならざる得ないようなことがあるであろう。これは認める。しかし、このような場合は、実に悲しい結末であって、これを原則として是認肯定する気持ちは僕にはないのである。その上、不寛容に報いるに不寛容を以ってした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱し、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深いひだを残して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は考えまいとしても考えざるを得ない。


従って、僕の結論は、極めて簡単である。寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきでない、と。繰り返して言うが、この場合も、先に記した通り、悲しいまた呪わしい人間的事実として、寛容が不寛容に対して不寛容になった例が幾多あることを、また今後もあるであろうことをも、覚悟はしている。しかし、それは確かにいけないことであり、我々が皆で、こうした悲しく呪わしい人間的事実の発生を阻止するように全力を尽くさねばならぬし、こうした事実を論理的にでも否定する人々の数を、一人でも増加せしめねばならぬと思う心には変わりがない。〔・・・〕


寛容と不寛容の問題は、理性とか知性とか人間性とかいうものを、お互いに想定できる人間同士の間のことであって、猛獣対人間の場合や、有毒菌対人間の場合や、天災対人間の場合は、論外とすべきであろう。人間のなかには、猛獣的な人間もいるし、有毒菌的天災的な人物もいるにしても、普通人である限りにおいては、当然問題の範囲内にはいってくる。ただ、このような人間は、その発作が病理学的な場合もあり無智の結果である場合もあるから、問題の範囲内に入れるとしても、これも別に論じなければならぬことになろう。ここでは、概念的すぎるかるしれないが、普通の人間における不寛容と寛容の問題だけに焦点の位置を限らねばならない。


狂人も確かに人間ではあるが、狂人が暴れ騒ぐ時には、普通人は非常に困却するが故に、若干の力を用いたり、薬物の力を籍りたりして、その暴行を抑制することがある。もちろん、狂人に対して非人間的な取扱いは決してしないというむつかしい条件の下に、こうした措置は、万人に認容されるであろう。もっとも、普通人と狂人との差は、甚だ徴妙であるが、普通人というのは、自らがいつ何時狂人になるかも判らないと反省できる人々のことにする。寛容と不寛容との問題も、こうした意味における普通人間の場に置いて、まず考えられねばならない。


秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当たる人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。〔・・・〕


寛容と不寛容とが相対峙した時、涙をふるって最低の暴力を用いることがあるかもしれぬのに対して、不寛容は、初めから終りまで、何の躊躇もなしに、暴力を用いるように思われる。今最悪の場合にと記したが、それ以外の時は、寛容の武器としては、ただ説得と自己反省しかないのである。従って、寛容は不寛容に対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それは恰もジャングルのなかで人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない。ただ違うところは、猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、不寛容な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。〔・・・〕


人間を対峙せしめる様々なロ実・信念・思想があるわけであるが、それのいずれでも、寛容精神によって克服されないわけはない。寛容に報いるに不寛容を以てすることは、寛容の自殺であり、不寛容を肥大させるにすぎないのであるし、たとえ不寛容的暴力に圧倒されるかもしれない寛容も、個人の生命を乗り越えて、必ず人間とともに歩み続けるであろう、と僕は思っている。〔・・・〕


そして、寛容は寛容によって護らるべきであり、決して不寛容によって護らるべきでないという気持ちを強められる。よしそのために個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても、寛容は結局は不寛容に勝つに違いないし、我々の生命は、そのために燃焼されてもやむを得ぬし、快いと思わねばなるまい。その上、寛容な人々の増加は、必ず不寛容の暴力の発作を薄め且つ柔らげるに違いない。不寛容によって寛容を守ろうとする態度は、むしろ相手の不寛容を更にけわしくするだけであると、僕は考えている。その点、僕は楽観的である。ただ一つ心配なことは、手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見える不寛容のほうが、忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われる寛容よりも、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生甲斐をも感じさせる場合も多いということである。あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じように。


だがしかし、僕は,人間の「想像力」と「利害打算」とを信ずる。人間が「想像力」を増し、更に「高度な利害打算」に長ずるようになれば、否応なしに、「寛容」のほうを選ぶようになるだろうとも思っている。僕は、ここでもわざと、利害打算という思わしくな言葉を用いる。


初めから結論が決まっていたのである。現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々はそれを激化せしめぬように努力しなければならない。争うべからざることのために争ったということを後になって悟っても、その間に倒れた犠牲は生きかえってはこない。歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機械にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も、より少い犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてよいはずである。(渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」1951年)



今のアフガニスタンの場合、危険を冒しても「即座に」渡辺一夫でいかなくちゃいけないんじゃないか。たとえ甘いと言われても、オプティミズムに賭けなくちゃならない筈だ。



私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。(アラン「オプティズム」)



…………………



なお渡辺一夫のエッセイの半ばほどにはこうもある。たぶんルネッサンスへの愛の人、渡辺一夫の寛容論の起源はここにあるのではないか。長いが参考のために貼り付けておく。


今でこそ尖鋭な思想的対立の圏外に置かれ、個人の内心の清らかさとやさしさとを支えるものにもなり、寛容を説くキリスト教にしても、ローマ時代やヨーロッパ中世・ルネサンス時代には、決して寛容なものではなかったようである。これは、例えば、J・B・ビュアリの『思想の自由の歴史』(森島恒雄氏訳、岩波新書)にも詳しく述べられている通りである。


このキリスト教がいかにして初めは不寛容であり、しかも何のためにその不寛容が激化せしめられ、その後いかにして寛容なものになったかということを、私見ではあるが、以下に記したいと思う。


キリスト教は、その母胎たるユダヤ教と同じく竣厳な一神教の理念にすがりながら、多神教のローマ社会に、深い敵意と憎悪とを抱き、キリスト教の哲学と倫理とを以てせねば、世界は救えないという若々しい自負に生きていたようである。その間には、経済的な問題、階級的な問題も絡まっていたことは言うまでもなかろう。ところが、キリスト教の不寛容に対して、年をとったローマ社会は、極めて寛容な態度を持っていた。当時のキリスト教から言えば、瀆神は死に値することになるにも拘らず、ローマ社会では、瀆神は罰せられず、ティベリウス帝は、「もし神々が侮辱されたら、それは神々自身に始末させるがよい」と言ったくらいである。


ところが、これほど寛容で、宗教を人間のものとしていたローマ社会も、弘まり始めたキリスト教に向っては、かなりの不寛容を示した時期があった。即ち、ドミティヤヌス帝トラヤヌス帝時代の政策がそうであり、いきり立ったキリスト教徒の殉教者列伝の第一頁が開かれるのであり、追いつめられたキリスト教の峻厳さは、悽愴の度を増して行くのである。そして、この性格は、その後のキリスト教に何世紀もの間、深い傷痕を残すのである


ところで、寛容なローマ社会が、なぜキリスト教に対して不寛容であり得たかというに、それは、ビュアリによれば、ローマ社会の寛容を脅す不寛容を抹殺して自らの、寛容を保とうとしたからである。


しかし、ここに附言せねばならぬことは、ローマ社会の不寛容といえども、キリスト教の不寛容に及ばなかったということである。我々は多くのキリスト教文学ーー例えば『クオ・ヴァディス 』や『ファビオラ 』ーーによって、ローマ人の残忍さを教えられているが、ローマ社会は、キリスト教徒の徹底的抹殺を考えはしなかったらしいのである。「第三世紀には、キリスト教徒はなお禁ぜられてはいたものの、全く公然と寛容されていた。教会は大びらに組織された。宗教会議は何の干渉も受けることなく開かれた。ちょっとした局地的な弾圧が試みられたことはあったが、大きな迫害は、ただ一回あっただけである。・・・(中略)・・・キリスト教徒は後になって一大殉教神話を創作したけれども、事実は、この世紀全体を通じて犠牲者は多くなかったのである。多くの残虐行為が皇帝たちの行為にされているが、彼らの治下において、キリスト教会が完全な平和を楽しんでいたことを我々は知っている」と、ビュアリは記している。


その上、三一一年三一三年における宗教寛容令は、ローマ社会にキリスト教の弘流を決定的にし、その結果、ローマの寛容の代りに気負い立ったキリスト教の不寛容が君臨するにいたった、とビュアリは説き、こうも言っている。「この重大な決断のおかげで、理性は鎖につながれ、思想は奴隷化し、知識は少しも進歩しない一千年が始まった」と。


すぐれた古典学者JB・ビュアリが、ローマ社会の肩を持つことは当然であるが、本来峻厳で、若さのために気負い立ったキリスト教を更に峻厳ならしめ、更にいきり立たせたものは、ローマ社会が、自らの寛容を守ろうとして、一時的で微温的なものであったとしても、不寛容な政策を取った結果であるように思えてならない。終始一貫ローマ社会は、キリスト教に対して寛容たるべきであった。相手に、自ら殉教者と名乗るロ実を与えることは、極めて危険な、そして強力な武器を与える結果になるるのである。中世、十六世紀を通じて、異端審判や宗教改革をめぐる宗教戦争が驚くほどの酷薄さを発揮したが、この酷薄さは、春秋の筆法を借りれば、ローマの誤った不寛容によって鍛えられたものと言えるかもしれない。一切の不寛容は、自らの寛容を守るための不寛容でも、予想外の呪わしい結果を残すことを考えざるを得ない。


僕は、ソヴィエット・ロシヤ国内政策の酷薄さを様々な論考や著書によって教えられ、ロシヤの人間化を切に願っている者だが、こうまで酷薄になってしまったのは、革命以来、ロシヤを取り巻き、ロシヤを叩き潰そうとした周囲の国々の責任にもなるのではないかしらと、時々思うことがある。窮鼠が成長したら猛虎になるかもしれないからである。追いつめられ続けた人間が、どれほど精疑心に駆られ、やさしい心根を失うかは色々な例で教えられからである。


キリスト教がヨーロッパの新秩序を引き受けた時、この秩序を紊しかねないものは異端と断ぜられたが、異端に対する迫害の歴史は、キリスト教殉教者列伝以上の「伝説」になるかもしれない。


しかし、不寛容なキリスト教も、所詮人間となり、それ自体に含まれているすぐれた人間的愛情が伸び始め、一己の不寛容を愚劣と考えるようになる時期がいずれくるのであるが、その最初の時期は、ルネサンス期ではあるまいか?ルネサンス期は、苛酷な異端訊問の例と酸鼻な宗教戦争との歴史である。新教徒と旧教徒が、同じキリストの名において、たとえその間経済的政治的な理由があろうとも、お互いに狂信的な不寛容振りを示した時期である。しかし、この時代に、異教的古代の遺産の発掘と、ョーロッパの地平線の拡大とによって、キリスト教の内側から、寛容の精神を説く人々が輩出するようになっている。これはキリスト教の持つ深い美質の故でもあろうが、ルネサンス期が人類の歴史に寄与した尊い贈物でもあるし、人間が存在する限り、無力らしい寛容は不寛容以上に根強いものがあることを物語るものと思っている。(渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」1951年)


ーー宗教間の争いだけではない。他人の家に土足で踏み込んだ植民地国家は、被植民地国家に「何世紀もの間、深い傷痕を残す」のは当然である。ましてやアフガンのパシュトゥン人にとって、1893年の英国が刻印したデュランドラインの傷痕は、この今も厳然とある。




ソ連支配の傷痕、米国支配の傷痕は、癒着するのさえあと何十年かかることやら。国家の幼少の砌の《傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。》(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)。もちろん世界には、英仏露による1916年のサイクス=ピコ協定によって、国がなくなってしまった3000万人のクルド民族のような例もある。


渡辺一夫に戻れば、この1951年のエッセイについての1970年の附記がある。


「自己批判」を自らせぬ人は「寛容」にはなり切れないし、「寛容」の何たるかを知らぬ人は「自己批判」を他人に強要する。「自己批判」とは、自分でするものであり、他人から強制されるものでもないし、強制するものでもない。(渡辺一夫「寛容について」1970年)




私は渡辺一夫のこの名高いエッセイを全面的に受け入れているわけではけっしてない。彼のユマニズムは、たとえばヒトラーには機能しない。アランのオプティミズムに対して、サルトルはナチには機能しないと言っていたのと同様だ。


ほかにも渡辺一夫曰くの《普通人というのは、自らがいつ何時狂人になるかも判らないと反省できる人々のことにする》などと反省できる人は滅多にいない。人はほとんど誰もが次のようになりうることをいまだ知らない。


ナチによる大量虐殺に加担したのは熱狂者でもサディストでも殺人狂でもない。自分の私生活の安全こそが何よりも大切な、ごく普通の家庭の父親達だ。彼らは年金や妻子の生活保障を確保するためには、人間の尊厳を犠牲にしてもちっとも構わなかったのだ。(ハンナ・アーレント『悪の陳腐さ』)

耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる境界は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。(ジジェク『快楽の転移』)

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。〔・・・〕マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。〔・・・〕アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)




とはいえ、現在のアフガニスタンのタリバン政権にポパーで行ったら悪循環が生まれるのはわかりきっている。渡辺一夫に賭けるしかない。それもすぐさまにだ。だが今の世界にはまったくない、その決断ができる人物あるいは組織が。最近の国連がどうなってるのか不詳の身だが、この10年の間に限っても、シリア、クルド等、真の決断、あるいは座礁軸を変える行為はない。


……………………


最後に、前回も別の箇所を掲げたが、田中浩一郎氏のタリバンの見方を掲げておこう。



元国連アフガン特別ミッション政務官・田中浩一郎氏インタビュー#2 高木徹 

20210911 

高木 この30年くらいの間、世界各地にさまざまなイスラム主義の暴力的な勢力が登場しました。「アルカイダ」、「IS」やその分派組織、あるいは東南アジアにおける「ジェマ・イスラミア」など、それぞれ栄枯盛衰をしてきたと思います。その中で、タリバンは息が長い。1994年に突然アフガニスタンに現れた謎の「神学生たち(=タリバン)」は、1996年の首都占領から5年間「タリバン政権」をアフガニスタンに作りました。その時と同じような雰囲気の、メンバーも重なっている人たちが2021年まで続いてきて一気に復権したわけです。その「長持ち」の原因についてどう思われますか? 


田中 それは、彼らの意識がブレないからだと思います。客観的に見て正しいかどうかは別にして、90年代の時も現在もそうですが、アフガニスタンは「外国軍によって占領されている」 という認識を彼らは持っていますその占領から解放するために、自分たちは立ち上がり戦っているのだという思いがある。ある種のナショナリスティックな、民族主義的な運動として勢いを保つことができるのです。  


そして、ここはまた非常に厄介な問題なのですが、それを支えるパキスタンという国家の存在があるわけです。パキスタンは2001年の時もアメリカに対して面従腹背でしたし、それ以降はどんどん中国になびいていくことによって、面従腹背以上にアメリカのコントロールの及ばない状態になっている。この隣国がタリバンをかくまい、隠れ家を提供し、食事も与えて、医療も与えて、偽のパスポートまで発行して、場合によっては武器も提供していたのだろうと考えられています。 



まったく無知であったアフガニスタンひと月漬け勉強の起源としてある次の柄谷とジジェクも掲げておこう。



西ヨーロッパとロシアによる侵略に脅かされて、オスマン帝国はその帝国を国民国家へと形成するよう取り組んだが、これは究極的に多種多様な国家群への分割をもたらした。オスマン社会は西洋化を探し求めると同時に、この西洋化に対する抵抗の原理をイスラムのなかに探し求めた。現在支配的なイスラミズムは、おおむねこの時期の産物である。


Threatened with encroachment by western Europe and Russia, the Ottoman Empire labored to form its empire into a nation-state, but this ultimately resulted in its division into multiple nations. At the same time as Ottoman society sought Westernization, it also sought in Islam a principle for resistance against this. Today's dominant Islamism is largely a product of this period(柄谷行人『世界史の構造』2010年ーー日本語版は手元にないので英語版からの私訳)


タリバンの成功、フーコーがイランにおいて探し求めたもの(そしてこの今、アフガニスタンにおいて我々を魅惑しているもの)は、どんな宗教的原理主義を伴った事例ではなく、たんにより良い生のための集団的関与だ。


the success of Taliban, …what Foucault was looking for in Iran (and of what fascinates us now in Afghanistan), an example which did not involve any religious fundamentalism but just a collective engagement for a better life. 


世界資本主義の大勝利の後、この集団的関与の精神は抑圧された。そして今、この抑圧された立場は宗教的原理主義の装いの下に回帰しているように見える。


After the triumph of global capitalism, this spirit of collective engagement was repressed, and now this repressed う seems to return in the guise of religious fundamentalism.


われわれは抑圧されたものの回帰を想像しうるだろうか、その集団的な解放関与の正当的な形式のなかに? それを想像しうるだけではない、既にその偉大な力でわれわれの扉を叩いている。

Can we imagine a return of the repressed in its proper form of collective emancipatory engagement? Indeed. Not only can we imagine it, it is already knocking on our doors with great force. Slavoj Zizek: The real reason why the Taliban has retaken Afghanistan so quickly, which Western liberal media avoids mentioning, 17 Aug, 2021


なおジジェクは、ピエール=アンドレ・タギエフ Pierre-Andre Taguieff が "Judéophobie des Modernes"(2008)で言った「ラディカルイスラミズムとマルクス主義の近似性」を2009年以降、私の知る限りでも、三度繰り返している。


「二〇世紀のイスラム教」とは、反コミュニズム的性質のマルクス主義、イスラム教徒の抽象的な狂信性の世俗化であることをわれわれはみな知っている。反ユダヤ主義の歴史を研究するリベラルな歴史学者ピエール=アンドレ・タギエフは、この性質を逆転してみせた――イスラム教は、コミュニズム衰退後にその暴力的なアンチ資本主義を引き継いだ「二十一世紀のマルクス主義」になりつつあると[Islam is turning out to be "the Marxism of twenty-first century]。失敗した革命の穴をファシズムが埋めるというベンヤミンの考えを念頭に置けば、マルクス主義者には、この倒置の「合理的核心」は容易に受け入れられる。(ジジェク 『ポストモダンの共産主義』2009年)




もっとも現在のタリバンは事実上、ヤクザ集団であるかもしれない。


高木 以前からタリバンには「強硬派」と「穏健派」がいて、表に出てくるのは「穏健派」だが、結局は「強硬派」が力を持っていると捉えられてきました。 


田中 「強硬派」というよりは、私は「武闘派」と呼んでいます。力がすべての世界、いわ ヤクザの世界ですから。米軍を追い出したいま、その「武闘派」の意見が強いことは間違いありません。 (元国連アフガン特別ミッション政務官・田中浩一郎氏インタビュー 高木徹 20210911




たぶん、フランス革命のときのヤクザよりは知的洗練さは劣るがテロ能力はずっと優れたヤクザだろう。


革命政府は異常な活動を必要とする。まきに闘いの渦中にあるからである。革命政府は画一的で厳格な法には従わない。なぜなら、現在見られる諸状況は激動的にして流動的だからであり、特に新たなかつ急迫せる危険に対して、新しく迅速な政策を絶えず採用することを余儀なくされているからである。


Le gouvernement révolutionnaire a besoin d’une activité extraordinaire, précisément parce qu’il est en guerre. Il est soumis à des règles moins uniformes et moins rigoureuses parce que les circonstances où il se trouve sont orageuses et mobiles, et surtout parce qu’il est forcé à déployer sans cesse des ressources nouvelles et rapides pour des dangers nouveaux…

(ロベスピエール「革命政府の諸原理について」Robespierre, Sur les principes du gouvernement révolutionnaire17931225)


徳はどうだろうか、不屈の正義は? 少なくとも連中はブレない男たちだ。


もし平和のうちにある人民政府の原動力が徳であるとすれば、革命における人民政府の原動力は徳であると同時に恐怖である。徳なきテロは罪悪であり、 テロなき徳は無力である。 テロは迅速、 峻厳、 不屈の正義に他ならず、 徳の放射物である。 それは特殊原則というより、 祖国緊急の必要に適用された民主主義の一般的原理の帰結である。


Si le ressort du gouvernement populaire dans la paix est la vertu, le ressort du gouvernement populaire en révolution est à la fois la vertu et la terreur ; la vertu, sans laquelle la terreur est funeste ; la terreur, sans laquelle la vertu est impuissante. La terreur n’est autre chose que la justice prompte, sévère, inflexible ; elle est donc une émanation de la vertu ; elle est moins un principe particulier, qu’une conséquence du principe général de démocratie, appliqué aux plus pressants besoins de la patrie,

(ロベスピエール「共和国の内政において国民公会を導くべき政治道徳の諸原理について」Robespierre, Sur Les Principes de Morale Politique Qui Doivent Guider La Convention Nationale Dans l'Administration Intérieure de la République, 179425)


さて、あの不寛容な男たちに寛容であるべきか。それとも?ーー《寛容に報いるに不寛容を以てすることは、寛容の自殺であり、不寛容を肥大させるにすぎない》。いやこれだけではない、ソ連侵攻前にはミニスカートも許容された「文明国」だったにもかかわらず、現在は最貧国になってしまったアフガニスタンをさらに飢えさせるのである。




だいたい私は不寛容なほうなんだがな、このひと月ばかりイスラム研究者を観察したなかで、三人ほどネトウヨ系研究者を見出し、シュルレアリスト気分になっちまったぐらいで。


最も単純なシュルレアリスト的行為は、リボルバー片手に街に飛び出し、無差別に群衆を撃ちまくる事だ。L'acte surréaliste le plus simple consiste, revolvers aux poings, à descendre dans la rue et à tirer au hasard, tant qu'on peut, dans la foule.(アンドレ・ブルトンAndré Breton, Second manifeste du surréalisme