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2021年10月18日月曜日

「排除と選別」対「融合と共存」


何度かセットで掲げているが、サピア・ウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis とニーチェの「言語が違えば、世界を異なった風に眺めている」というほぼ同じような話がある。


人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。(Sapir, Mandelbaum, 1951)


ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。(ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1886年)



日本語ってのはとってもヘンな言語なんだろうよ、日本の反知性主義や日本ではエリートが育たない主因は、日本語自体のせいかもな。


中井久夫と柄谷行人ならこう言っている。


いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収)

日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年)



こういった話は1970年代にしばしば語られた。たぶん当時は言語論が一種の流行だったのだろうが。私は、高校時代から大学時代の始め頃にかけて、森有正のちょっとしたファンだったので、ああ、なるほど、こういうもんかと思ったね。


「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言しているのである。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年)

実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。〔・・・〕


何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。〔・・・〕私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです。(森有正『経験と思想』1977年)



そして大学時代に蓮實重彦の似たような話を読んだ。


たとえば、「ぼくときみと彼は、成功を確信していた」という日本語をフランス語に訳すなら、それぞれの代名詞を強調形に改めた上で、Moi, toi et lui, nous sommes persuadés de la réussite. というフランス語の文章を構成しなければならない。この例からも明らかなとおり、フランス語の「ぼくたち」Nousとは、「ぼく」の数倍化されたものではなく、この「ぼく」と「ぼく」ならざる他の人称の集合からなりたっていて、その構成要素相互のあいだには「排他的な関係」が成立しているのだ。すなわち、「ぼくたち」Nousが主語になった場合には、「ぼく」Jeが、「きみ」Tuと「きみたち」Vous、「彼(または彼女)Ilと「彼ら」Ilsに対して「優位」な地位を占める、ということである。


「ぼくたち」Nous が「ぼく」Je の増幅したものではなく、「ぼく」Je と「ぼく」ならざるものからなりたち、しかもそこに「排他的関係」が働いているという言語学的事実、〔・・・〕フランス語とは、まず何よりも 「排除」の体系なのだ。「人称代名詞」の三つの人称の間には、その一つを口にした瞬間に、相互の緊張関係が働く。そして、その三つの人称は、かりにある複数性の中に融合しているかにみえながらも、たがいに相手をうけいれず、「優位」と「劣勢」の関係を顕在化させずにはおかない。ところで、日本語の「ぼくたち」、「われわれ」には、こんな「排斥」作用が含まれているであろうか。そこにあるのは、「ぼく」あるいは「われ」の、無数の共犯的融合ばかりではないか。そもそも文法的にいって、日本語の「ぼく」と「ぼくたち」の間に、単数、複数の対立関係が存在しているのか。あるのは、意識の上での孤立と融合だけであって、数の概念そのものが日本語にかけているのではないか。はたして「人称代名詞」などと呼ばれるものが、日本語にあるのだろうか。「ぼく」なり「私」なりを、「普通名詞」、「固有名詞」とから区別しうる言語学的水準が、いったい想定できるのであろうか。時枝誠記によれば、日本語における「人称代名詞」は、事物の属性的概念を表現することなく、話し手との関係概念の明確化を目ざすものとして定義されているが、そこには、文章の全体にまで波及する「排除」の体系は認められない。また、複数と単数の関係も、決して排他的ではない。(蓮實重彦「「あなた」を読む」『反=日本語論』所収、1977年)



この後、蓮實はこうも言っている。


《「排除」と「選別」による思考……彼らの言葉がその基盤を置いている「差異」の概念とは、われわれ日本人にとっては、どこか血なまぐさい殺伐たる気配を漂わしている。》、《この日々の殺戮行為は、なにも言語的領域ばかりに限られてはおらず、政治的、文化的、経済的な諸分野でたえず進行中の現実なのである。何かが選ばれるとき、何かが殺される。》


他方、《日本語的環境…(それは)「排除」と「選別」よりは、遥かに「融合」と「共存」と親しく戯れる機会》を与えてくれる。


「排除と選別」の西欧的環境と「融合と共存」の日本的環境ってことだ。もっともこれだけではない。「融合と共存」に馴染まないヤツは村八分されて排除されるというムラ社会の特徴がある。



日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。〔・・・〕


労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)



この日本語的環境で、今後かりにエリートを育てたいと願っても、おそらく至難の技だろうよ。反知性主義のままさ、ずっと。この現在でも、ツイッターなんか眺めるとつくづくそう思うね。



「融合と共存」という共感の共同体は、居心地のいいところもあるんだろうがね。曲がり角に至らなかったら。


国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)


曲がり角の向こうには「レミング的悲劇」が待ってるよ、きっと。


農耕社会の強迫症親和性〔・・・〕彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)



トムとジェリーの話を思い出したな、次の二文も頭のなかでセットになってるんだ。


現実界とはただ、角を曲がったところで待っているもの、ーー見られず、名づけられず、だがまさに居合わせているものである。(Paul Verhaeghe, Byond gender, 2001)


猫が、前方に断崖があるのも知らず、必死にネズミを追いかけている。ところが、足元の大地が消え去った後もなお、猫は落下せずにネズミを追いかけ続ける。猫が下を見て、自分が空中に浮かんでいることを見た瞬間、猫は落ちる。まるで現実界が一瞬、どの法則に従うべきかを忘れたかのようだ。猫が下を見た瞬間、現実界はその法則を「思い出し」、それにしたがって行動する。(ジジェク『 斜めから見る』第2章、1991年)