人はみなーー男女ともーーミソジニストの相がある。なぜなら母とは全能の原支配者であり、すべての女に母の影が落ちているから(支配者が嫌われるのはコモンセンスだろう)。 |
母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」What is it, son? この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで[from sexism to misogyny ]。(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998) |
母の影は女の上に落ちている[l'ombre de la mère tombe là sur la femme.]〔・・・〕 全能の力、われわれはその起源を父の側に探し求めてはならない。それは母の側にある[La toute-puissance, il ne faut pas en chercher l'origine du côté du père, mais du côté de la mère,」(J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016) |
このポール・バーハウとジャック=アラン・ミレールの二人のラカン注釈者の観点は、もちろんラカンに準拠している。 |
全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957) |
(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme. La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition.] (Lacan , S17, 11 Février 1970) |
「母なる女は享楽を与える」とあるが、ここでの享楽とは現実界の享楽であり、トラウマのことである。 |
享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel. ](Lacan, S23, 10 Février 1976) |
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
ラカンにおいてトラウマの別名は穴である。 |
享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
享楽自体、穴をを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである [la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite](J.-A. Miller, Religion, Psychoanalysis, 2003) |
フロイトラカンにとって、母とは原穴の名、つまり原トラウマの名なのである。 |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
モノは母である[das Ding, qui est la mère] (Lacan, S7 16 Décembre 1959) |
母、その基底にあるのは、「原リアルの名」であり、原穴の名である[Mère, au fond c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou](Colette Soler, Humanisation ? , 2014セミネール) |
もちろん母とは、原エロス・原愛の対象でもある。 |
子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性へのアタッチメントに起源がある[Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust, die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis.]。〔・・・〕 最初の対象は、のちに、母という人物のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者ersten Verführerin」になる。[Dies erste Objekt vervollständigt sich später zur Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. ] |
この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年) |
上に原誘惑者[ersten Verführerin]ともあった。これにかかわってフロイトはこうも書いている。 |
母への依存性[Mutterabhängigkeit]のなかに、 のちにパラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くべきことのようにみえるが、母に殺されてしまうという(貪り喰われてしまう?)という規則的に遭遇する不安[ regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?)]があるからである。このような不安は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母に対して生じる憎悪[Feindseligkeit]に対応する。(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年) |
この憎悪、この「母に貪り喰われること」についても、ラカンはフロイトに同調しつつ次のように言っている。 |
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。[Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.](ラカン、S4, 27 Février 1957) |
ーー《真の女は常にメデューサである[une vraie femme, c'est toujours Médée. ]》(J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991) |
要するに母、あるいはその後継者である女たちは、愛憎コンプレクス[Liebe-Haß-Komplex]の対象ということになる。 |
愛は非常にしばしば「アンビヴァレンツ」に、つまり同一の対象にたいする憎悪衝動をともなって現れる[Liebe …daß sie so häufig »ambivalent«, d. h. in Begleitung von Haßregungen gegen das nämliche Objekt auftritt. ](フロイト『欲動とその運命』1915年) |
愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がたぶんある[Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung ](フロイト、人はなぜ戦争するのか Warum Krieg? 1933年) |
ラカンの享楽が「エロトス」である理由のひとつは、母なる原対象が愛憎コンプレクスの対象であるゆえである。 |
ラカンによる享楽とは何か。そこには秘密の結婚がある。エロスとタナトスの恐ろしい結婚である[Qu'est-ce que c'est la jouissance selon Lacan ? –…Se révèle là le mariage secret, le mariage horrible d'Eros et de Thanatos. ](J. -A. MILLER, , LES DIVINS DETAILS, 1 MARS 1989) |
重要なのは、ミソジニーは男だけではないことである。ラカンの若い友人だったソレルスは、小説のなかだが次のように書いている。 |
女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目… 彼女たちは自由を待っている…空港にいるとぼくにはそれがわかる…家族のうちに監禁された、堅くこわばった顔々…あるいは逆に、熱に浮かされたような目…彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ、次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ! (ソレルス『女たち』鈴木創士訳) |
「ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない」ーーこれは日常的に少し観察してみれば、そう感じるのではないか。とくにツイッターなどではテキメンに。 以上、人はみなミソジニストである。これは精神分析的な発達段階論的視野のもとでは否定しようがない構造的事実である。 |
幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ。 die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben,(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
サドニーチェフロイト読みの「真のフェミニスト」カミール・パーリアは、女性嫌悪ではなく女性恐怖が普遍的なものだとしている。 |
大いなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。(カミール・パーリア Camille Paglia "No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality", 1994) |
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992) |
………………
最後にこう引用しておこう。
最後に私は問いを提出する。…次のことは本当であろうか? すなわち、全体的に判断した場合、歴史的には、「女なるもの das Weib」は女たち自身によって最も軽蔑されてきた、男たちによってでは全くなく。"das Weib" bisher vom Weibe selbst am meisten missachtet wurde - und ganz und gar nicht von uns? -(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年) |
|
一般的に、母親は息子に対して以上に娘に対して支配者として振る舞いがちであるだろう。 |
||
まず最初に身体を盗まれるのは少女なのである[Or, c'est à la fille qu'on vole d'abord ce corps]。そんなにお行儀が悪いのは困ります、あなたはもう子供じゃないのよ。出来損ないの男の子じゃないのよ……。[cesse de te tenir comme ça, tu n'es plus une petite fille, tu n'es pas un garçon manqué, etc. ]最初に生成変化を盗まれ、一つの歴史や前史を押しつけられるのは少女なのだ。次は少年の番なのだが、少年は少女の例を見せつけられ、欲望の対象として少女を割り当てられることによって、少女とは正反対の有機体と、支配的な歴史を押しつけられる。つまり少女は最初の犠牲者でありながら、もう一方では模範と罠の役割も果たさなければならないということだ[La fille est la première victime, mais elle doit aussi servir d'exemple et de piège]。(ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』1980年) |
||
とすれば母への憎悪は、息子よりも娘のほうが大きくなるはずである。もっとも現代的女性はこの局面が少なくなっている傾向はあるかもしれない、それはかつての家父長制と結託したエディプス的母が少なくなっているだろうから。
|
母なる女と女なる娘とのあいだのライバル関係は、場合によっては現在のほうがいっそう顕著になっているということがあるかも知れない。