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2021年12月22日水曜日

唯一の愛と偽物の愛


2002年3月13日(水)その2

何かを信じるということは、目をつぶり鈍感になることだ。

それによって生まれる単純さによって安らぎと強さを得ることが出来る。

自分で立たず、大きな価値にくるみ込まれて「意義のある」人生をおくることができる。

でも、それは偽物だ。



彼女の日記は宝である。


以下、失礼ながらいくらか引用させていただく。


◇「八本脚の蝶」の無断転載を禁じます。著作権は二階堂奥歯に帰属します


版権・ 著作権をお持ちの方、ご連絡頂けばすぐに削除いたします。(2002年4月8日(月))


………………


2002年9月10日(火)

魂を手渡す軽やかさを私は知っている。躰を明け渡すよろこびを私は知っている。
神に近い何者かの意のままに苦痛と快楽そのものになり、何者かの意のままに満ちあふれるよろこびとかなしみそのものになることを知っている。

その時はもう私などいないのだ、存在するのはただあなたのものである魂とあなたのものである躰。あなたの意志の変化と同時に変化する存在そのもの。
なにもないなにもないなにもない。だからすべてなの。
創造者の意識のままにあらわれる世界。
(それはついさっきまで二階堂奥歯と呼ばれていた)。

あなたのものであるこの世界を今終わらせてもかまわない。
あなたのものであるこの魂をどう扱ってもかまわない。
あなたのものであるこの躰をいくら壊してもかまわない。

でもそんな瞬間はもうこないのかもしれません。

ところで、知人のメールによると、一般的なMのステロタイプとは、縄・鞭・蝋燭に加えバイブやアナルや浣腸や強制オナニーなんだそうです。
……ジャンルSMって実はすごく遠いのかも。
私にとってマゾヒズムとは例えば先に書いたようなものであり、また下の引用のようなものなのですが。

私は、苦しみなしでは一瞬も生きることができませんでした。私が苦しめば苦しむほど、私は、もっとこの愛の聖性に満足しました。そしてそれは、絶え間なく苦しんだ私の心に、三つの願望をかき立てました。その第一が苦しむこと、第二は、主を愛し、聖体を受けること、第三は、主と一致するため、死ぬことでした。(マルガリタ・マリア・アラコク『聖マルガリタ・マリア自叙伝』鳥舞峻 聖母文庫 1998.3)


最後のお知らせ

二階堂奥歯は、2003年4月26日、まだ朝が来る前に、自分の意志に基づき飛び降り自殺しました。

このお知らせも私二階堂奥歯が書いています。これまでご覧くださってありがとうございました。




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ここで、唯一の愛に生きた彼女を穢すようでまたまた礼を失するが、巷間の愛の戯言を諌めるために精神分析言説を引用する。



◼️マゾヒズムの命令

超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme],(Lacan, S10, l6  janvier  1963)

超自我を除いては、何ものも人を悦へと強制しない。超自我は悦の命令である、 「悦せよ」と。[Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi.  Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : jouis !  」(Lacan , S20, 21 Novembre 1972)

現実界の悦は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた悦の主要形態である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel] (Lacan, S23, 10 Février 1976)


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend.] (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。


Masochismus […] für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



◼️神の不安

大他者の悦の対象になることが、本来の悦の意志である[D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance]〔・・・〕


問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的悦…見たところ、二者関係に見出しうる。その関係における不安[Où est cet Autre dont il s'agit ?    …toujours présent dans la jouissance perverse, …situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…]


この不安がマゾヒストの盲目的目標なら、ーー盲目というのはマゾヒストの幻想はそれを隠蔽しているからだがーー、それにも拘らず、われわれはこれを神の不安と呼びうる[que si cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste, car son fantasme la lui masque, elle n'en est pas moins, réellement, ce que nous pourrions appeler l'angoisse de Dieu. ](Lacan, S10, 6 Mars 1963)


一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.](Lacan, S17, 18 Février 1970)

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)





◼️マゾヒズムの意志

悦の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。悦の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

死の欲動は超自我の欲動である。la pulsion de mort [...], c'est la pulsion du surmoi  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)


ラカンの観点では、マゾヒズム は人に広く行き渡っている。マゾヒズムはリビドーと死の欲動の結合に関与していると言いうる[dans la perspective de Lacan, il y a une prévalence du masochisme, dont on peut dire qu'elle est impliquée par l'unification de la libido et de la pulsion de mort]. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 3 MAI 1989)

悦という語は、二つの満足ーーリビドーの満足と死の欲動の満足ーーの価値をもつ一つの語である。Le mot de jouissance est le seul qui vaut pour ces deux satisfactions, celle de la libido et celle de la pulsion de mort. (J.-A. Miller,  L'OBJET JOUISSANCE , 2016/3 )

リビドー[Libido]は愛の欲動[Liebestriebe]である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要)





◼️愛への意志=死へ意志

愛することと没落することとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意志することである。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる![Lieben und Untergehn: das reimt sich seit Ewigkeiten. Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode. Also rede ich zu euch Feiglingen! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』  第2部「無垢な認識」1884年)



愛への意志は死への意志である。ほかのすべての愛は偽物である。


(表向きの言説ではなく)フロイトの別の言説が光を照射する。フロイトにとって、死は愛である[Un autre discours est venu au jour, celui de Freud, pour quoi la mort, c'est l'amour]. (Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)


死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、悦と呼ばれるもの以外の何ものでもない[Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance]. (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)



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もう20年近くたつが、あらためてご冥福を。