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2021年11月13日土曜日

「女性の自由」の帰結

 


前回は女性の「性的自由」に絞って記述したが、実はもっと大切なことがある。「性的」を外した「女性の自由」である。


全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)

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母の影はすべての女に落ちている。したがってすべての女は母の力をを備えている、母なる全能の力さえも[The shadow of the mother falls on every woman so that she shares in the power, and even in the omnipotence, of the mother. ]


これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」What is it, son?


この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで[from sexism to misogyny ]。(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)


女性が真に自由になると、世の中はミソジニーで溢れ返ってしまうということはないだろうか。いくらか自由を慎んでいただくことが世のため人のためではないだろうか。


母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収、摘要)


もっともこういったことを言っても、もはや遅いのかもしれない。世界は父なるファルスのタガが既に外れてしまっているのだから。


原理の女性化がある。両性にとって女がいる。過去は両性にとってファルスがあった[il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.](エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)





もともと世界の原支配者は母なる女であり、父なる男ではない。


母の影は女の上に落ちている[l'ombre de la mère tombe là sur la femme.]〔・・・〕全能の力、われわれはその起源を父の側に探し求めてはならない。それは母の側にある。La toute-puissance, il ne faut pas en chercher l'origine du côté du père, mais du côté de la mère,(J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)


父とは原初にある母なるシニフィアン(母の表象)の代理人にすぎない。


エディプスコンプレックスにおける父の機能は、他のシニフィアンの代理シニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン、母なるシニフィアンである。La fonction du père dans le complexe d'Œdipe, est d'être  un signifiant substitué au signifiant, c'est-à-dire au premier signifiant introduit dans la symbolisation,  le signifiant maternel.  (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


この母の表象をラカン派ではS(Ⱥ) と書く。穴Ⱥの表象(トラウマの表象)である。


シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens](J.-A.MILLER,, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

モノは母である[das Ding, qui est la mère](ラカン, S7, 16 Décembre 1959)


このS(Ⱥ)が現実界のシニフィアン(エスの境界表象)、かつわれわれを常に支配している超自我のシニフィアンである。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976

S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96


母なる超自我の代理人である女たちが、真に自由になってしまいつつあるのが、この21世紀ではなかろうか。


母なる超自我[surmoi maternel]・太古の超自我[surmoi archaïque]、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 surmoi primordial]の効果に結びついているものである。最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、母なる超自我に属する全ては、この母への依存[dépendance]の周りに分節化される。  (Lacan, S5, 02 Juillet 1958


この母なる超自我は、われわれヒト族にいったい何をしたのか。


(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (Lacan , S17, 11 Février 1970)


そう、母なる女は享楽を与えたのである。言い換えれば、あの女は穴=トラウマを与えた。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974




かつては父の名でこの穴を塞いでいた。


父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père]  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

ラカンがS (Ⱥ)を構築した時、父の名は穴埋め、このȺの穴埋めとして現れる。Au moment où Lacan construit S(Ⱥ), le Nom-du-Père va apparaître comme un bouchon, le bouchon de ce Ⱥ.     (J.- A. Miller, L'AUTRE DANS L'AUTRE, 2017)


だがこの父は学園紛争前後を契機に蒸発しつつある。


父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)


これが極まりつつあるのが、21世紀の女性性原理の時代である。

この女性性原理の別名は女なる神、女なる超自我の原理である。


一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)

一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.](ラカン, S17, 18 Février 1970)


フェミニストの方々はどうか無慈悲に振る舞わずに、いくらかの父の復権を思案していただきたいものである。


フロイトによる超自我の用語、私はこの超自我を「猥褻かつ無慈悲な形象」と呼ぶ。par FREUD sous le terme de Surmoi,  …à ce que j'ai appelé « cette figure obscène et féroce »   (ラカン, S7, 18 Novembre 1959)



お願いしたいのは、抑圧の審級にある父の名では決してない。そうではなく、つつしみの審級にある父なるレリギオである。





なにはともあれ、21世紀の「知識人」は、フェミニストに限らず、ドゥルーズ &ガタリの犯した過ちにいまだ支配されている。


パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズ とガタリの書(「アンチオイディプス」)における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズ とガタリがなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。

A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté.    (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)


オイディプスの打倒、つまり家父長制を打倒した先に自由などある筈がないのである。あるのは猥褻で無慈悲なオルギア的母なる超自我である。


家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的家母制の青白い反影にすぎない。the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system (PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)


ーー《私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから。j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde》(Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)



ドゥルーズの最大の問題は、フロイトの超自我と自我理想(ラカンの父の名)を等置してしまったことである(参照)。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく仮定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


この観点において、私の知る限りで、日本のドゥルーズ研究者はいまだ全滅である。








ああ、Tristis post Coitum!

 

女を抑圧したらダメだよ、父なるレリギオ、つまり慎みは大事だけれどさ。

ティレシアスによれば、女性には「性的自由」を男の九割ほど慎んでもらって男女平等になるようだけどね。

性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は19である。(ティレシアスの神話)


これじゃいくらなんでも、というなら、

モンテーニュの10対25というのがあるね

六割ほど慎んでいただければ男女対等だ。


女性たちは、世に行われている生活上の規則を拒んだって、少しも悪くはない。それは男どもが彼女たちに相談なしに作り上げたものであるから。彼女たちと我々との間には自ずと陰謀や喧嘩がある。我々と彼女たちとの最も親密な抱擁すら、なお雨風にみちみちている。しかるに、ウェルギリウスの説によると、我々は女性たちを不当に取扱っている。我々は、愛の営みにおいて、女の方が男よりもはるかに能力があり熱烈であることを知っているのに[plus ardentes et plus sensibles que nous aux effets de l'amour]。〔・・・〕


それにまた、この道の達者として有名なローマのある皇帝〔プロクルス〕およびある皇后〔メッサリナ〕が、それぞれの時代にこれに関して与えた証拠も聞いているのだ(この皇帝は一晩のうちに、そのとりことなったサルマティアの処女十人の蕾を散らした。ところが皇后の方は、実に一晩に、欲望と嗜好のおもむくままに、相手をかえつつ二十五回も行った)。〔・・・〕


以上のことを信じまた講釈しながら、われわれ男どもは、節制を婦人たちだけが負うべき務めとして強要する。しかも極刑をふりかざして!(モンテーニュ『エセー』第3部40-41節)



何はともあれ、男にはオチンチンがヘナっとなるからな、

最近はカーマスートラ剤があるにせよさ。

女には到底歯が立たないよ。



日常経験において、男性器は輝かしいポジション、つまり伝統的図像学における勃起したファルスの表象を見出すことは稀である。消耗が男性のセクシャリティの日常の役柄だ。オーガズム、つまり期待された享楽に至るやいなや、勃起萎縮が起こる[survient la détumescence de l'organe]。他方、女性の主体はどんなインポテンツにも遭遇せず、男性のように性交において去勢をこうむる器官に翻弄されずに、享楽を経験する。フロイトの女が去勢されているなら、ラカンの女は何も欠けていない。《女の壺は空虚だろうか、それとも満湖[plein]だろうか。…あれは何も欠けていないよ[Le vase féminin est-il vide, est-il plein ? (…) Il n'y manque rien ]》(20 Mars 1963)。ーーラカンは不安セミネールⅩでこう言った。〔・・・〕


ラカンは明瞭化したのである、ファルスはたんにイマージュ、力のイリュージョン的イマージュ[l'image illusoire de la puissance]に過ぎないと。女性の主体は男が喜ぶようにこの囮の虜[captif de ce leurre]になりうるかもしれない。だが実際は、欲望と享楽に関して、男性の主体のほうが弱い性なのである。《女は享楽の領域において優越している[La femme s'avère comme supérieure dans le domaine de la jouissance ]》(S10, 20 Mars 1963). (ジャン=ルイ・ゴーJean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)



このあたりの話はジャック=アラン・ミレール版を何度か引用してきたけどさ


男ってのは女が真に性的自由になったら逃げ出すもんさ


何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータの神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  1998)


宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナデンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。〔・・・〕

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。〔・・・〕


自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリア Camille Paglia『性のペルソナ Sexual Personae』1990年)




ああ、Tristis post Coitum!



原始的淋しさは存在という情念から来る。

Tristis post Coitumの類で原始的だ。

孤独、絶望、は根本的なパンセだ。

生命の根本的情念である。

またこれは美の情念でもある。


ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』


性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen




イボタの繁みから女のせせら笑いが

きこえてくる。


ーー西脇順三郎「六月の朝」







わが器十分に長く太からざりしとせば彼女たちがものうげにそれを眺めたるも故なきにあらず。Si non longa satis, si non benè mentula crassa : Nimirum sapiunt vidéntque parvam Matronæ quoque mentulam illibenter.(プリアペアーーモンテーニュ『エッセイ』第3部より)






2021年11月12日金曜日

アホイズム装置

 


大切なのは、敵の敵は味方ではないということだよ。たとえば、フェミニズムの敵アンチフェミはまったく味方ではない。とくに彼らの一部は、出生率の回復などにかこつけて女性の教育の制限などということをマガオで言い始めている。これこそ前回記した「支配的・抑圧的な家父長制」の復権を目指す、厚顔無恥な、まったく繊細さが欠如した破廉恥漢たちだ。


私は、ツイッターのクラスタ村でのフェミを批判することもあれば、アンチフェミも強く批判する。


思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム 」2006年)


重要なのはパララックスだ。キャッチャーさをもった短いツイートが拡散されるツイッター装置ではこれがまったく機能しない。あれは繊細さの欠如を育む装置、ファシスト装置だ。


重要なのは、〔・・・〕マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


ーー《柄谷の画期的成功は、…パララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだことにある。》(ジジェク『パララックスヴュー』2006年)


以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性 Verstand の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性 äußeren Vernunft の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点 Gesichtspunkte anderer から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差 starke Parallaxen (パララックス)を生じはするが、それは光学的欺瞞 optischen Betrug を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢Träume eines Geistersehers』1766年)



クラスタ内にとどまって互いに湿った瞳を交わし合い頷き合っている振舞いは、視差=パララックスを必ず殺す。そして人はヒトラーの罠に嵌る。





何はともあれ、短く書こうとするとアフォリズムになりやすい。ここでのアフォリズムは箴言ではない、阿呆イズムだ。気のきいたことばは疑わしい。


ツイッターをやめろとは言わない。でも、アホイズムに陥らないよう、使い方を十分に注意することだな。


ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないか(高橋悠治「壁の向うのざわめき」)




2021年11月11日木曜日

21世紀というポルノグラフィの時代

この柴田英里さんの提議はとてもいい。現代のイデオロギーを分析するためには、このような「分類」が欠かせない。


柴田英里 @erishibata Nov 3


【シンポジウム開催概要】


現在、インターネット上では、女性表象が炎上する事例が多くあります。また、その際には、ジェンダー・フェミニズムやポリティカル・コレクトネスの観点から表現を批判する声が多く寄せられることがあります。(1)


しかし、ジェンダースタディーズやフェミニズムは一枚岩ではなく、かつてはジェンダー・フェミニズムの観点から性表現を肯定する動きもありました。また、性表現の領域で活躍する女性表現者や、女性鑑賞者の存在を無視することは、現代女性の自由や欲望を考える上でも大きな損失となりえます。(2)


こうした社会状況を憂慮し、オンラインシンポジウム【女性と性表現 ―表現者・ファンの視点から―】を2021年11月28日、12月05日の2日間に渡りZOOMにて開催することにいたしました。(3)


本シンポジウムは、「女性表現者の性表現」「性表現の女性ファン」などをテーマに、様々な登壇者の発表と参加者を交えたディスカッションを通じて、性表現の領域には実在の女性表現者・女性鑑賞者が存在すること、その歴史や意義をあらためて提示し、記録として残すことを目的としています。(4)



もっとも私が「いい」と感じるのは、彼女の意図に反してそうなのかもしれないが。


とりあえずこう置いてみよう。




ーーサブカルのところには「オタク」とか「主流ネット民」とかのほうがいいかもしれないが、ここでは古い用語を選択した。


そして、今まで何度か引用しているが、サブカル・フェミニズム・性的自由は、21世紀の支配的イデオロギーだとする三人の論者の文を再掲してみよう。



私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


現在の状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように[not to confuse the ruling ideology with ideology which seems to dominate]特に注意することだ。われわれは、これまで以上に、ヴァルター・ベンヤミンが遺してくれた注意事項を心に留めなければならない。その注意事項とは、ある理論(あるいは芸術)が社会闘争に関わる自分の立ち位置をどのように決定するかを訊ねるだけでは不十分であり、それが闘争においてどのようなアクチュアルな機能を発揮しているかもまた問われねばならない、というものである。 


例えば、セックスで真のヘゲモニーを掌握している考え方は家父長制的な抑圧などではなく自由な乱交である。芸術で言えば、悪名高い「センセーショナル」展覧会と銘打ったスタイルでなされる挑発が規範 norm に他ならなず、それは体制に完全に併合されてしまっている芸術の典型事例である。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』2002年)


セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の逸脱に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である、それだけが残存する倒錯形式のみではないにしろ。実際、25年前の神経症社会に比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject、2005)



さてどうなんだろう。フェミニズムと性的自由は支配的イデオロギーなのかそうではないのか。かりに欧米先進諸国ではそうであっても日本では違うのか?



ラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレール(現代主流臨床ラカン派のボス)は、ポルノについて2014年に次のように言っている。


◼️ヴィクトリアからポルノへ

精神分析は変貌している。 〔・・・〕


たとえば、ある断絶を我々は見逃すことはありえない。フロイトが精神分析を発明したのは、ヴィクトリア朝支配、セクシャリティ圧制の典型のいわば後ろ楯のもとでだ。他方、21世紀は、「ポルノ」よ呼ばれるもののとてつもない氾濫である。それは見せ物としての性交に到る。ウェブ上で、マウスの単純なワンクリックによって、誰にでもアクセス可能なスペクタクル。


ヴィクトリアからポルノへ。我々はただ禁止から許容へと移行したのではない。そうではなく、刺激・侵入・挑発・強制への移行だ。かつての幻想とは異なったポルノグラフィとは何だろう?あらゆる多様な倒錯性向を満足させるに充分なヴァラエティが映しだされるあのポルノは?


これは、セクシャリティにおいて、また社会制度において、新しい何かだ。若者のあいだでのその習得を促すパターンのなか、彼らはただひたすらこの道のりを歩み始める。〔・・・〕


◼️男の性の弱体化

ポルノグラフィに触れると、弱くなる性は男の性だ。男たちのほうがいっそう容易に受け入れるから。我々は分析において、どんなにしばしば聞いただろう、あれらポルノの浮かれ騒ぎをやってみたいという強迫観念の不平不満を。彼らはハードディスクにストックしてさえいる。


他方、妻や恋人の側では、女たちは、パートナーの実践を自ら知っているにもかかわらず、彼らに比べてやってみることは相対的に少ない。そのときどうなるか? 場合によりけりだ。女は裏切りと思うかもしれない。取るに足らない娯楽と思うかもしれない。


ポルノグラフィの臨床は、21世紀に属する。私はいまそれに言い及んでいる。しかし、それは詳細に観察されるに値する。というのは、それはしつこく己れを主張し、この15年のあいだ、分析治療において際立って現前するようになったから。


◼️バロック時代と現代社会

とはいえ我々は、このまさに現代的な慣習をめぐって思いを馳せざるをえない。ラカンによって指摘されたこと、すなわち芸術におけるキリスト教信仰の影響の高揚として、バロックの最盛期に実現された影響を。イタリアとその教会の周遊旅行から戻ってきてすぐ、ラカンはぴったりと「オーギー orgie (狂宴)」に言及した。ラカンは、セミネール「アンコール」にて、注意を促した。あれらすべての身体の露出は、享楽を呼び起こすことに相当する、と。


これが、我々がポルノグラフィティとともにある場だ。しかしながら、恍惚感をもたらす身体の宗教的露出は、性交自体に対しては、常に「オフ・スクリーン」のままだった。ラカンが観察したように、「人間の現実性」のなかの限界の彼方であるかのように。この「人間の現実性」の奇妙な再出現。Réalité humaine とは、ハイデガーの最初の翻訳者が Daseinと表現された語を仏語に翻訳した表現である。しかし、それは遠い昔のことだ。というのは、今ではどんな「存在」も、この Dasein への道のりから絶縁してしまっているのだから。


科学技術の時代には、性交はもはや個人の領野には限られていない。それは、我々おのおのの幻想を増長しつつ、今では表象の上演の領域に溶け込んでいる。それは大衆的な規模へと移り進んだ。


ポルノグラフィとバロックとのあいだで、強調されなけれなならない二番目の相違がある。ラカンが定義したように、バロックは、身体の観察手段、身体の凝視 “régulation de l'âme par la scopie corporell ”を通して、魂の統御を図った。ポルノグラフィにはそんなものは微塵もない。何の統御もなく、むしろ絶え間ない侵犯がある。


ポルノグラフィにおける身体の凝視は、享楽に向かった「ひと突きnudge」として機能する。「剰余享楽」の型に従って満足させられるように図られた享楽への促し。それは、沈黙し孤立した達成のなかにある、危ういホメオスタシス(恒常性)的統御を逸脱する様式である。〔・・・〕


◼️性交の怒濤による意味のゼロ度

電子ネットワークによるポルノグラフィの世界的蔓延は、精神分析において、疑いもなく歴然とした影響を生み出している。今世紀の始まりにおけるポルノグラフィの遍在は、何を表しているのか? どう言ったらいいのだろう? そう、それは「性関係はない」以外の何ものでもない。これが我々の世紀に谺していることだ。そしてある意味で、ひっきりなしの、絶え間なく続くあのスペクタクルの聖歌隊によって、詠唱されていることだ。というのは、性関係の不在が、おそらくこの熱中に帰されうるから。我々は既に、この熱中の帰結を、より若い世代の道徳観のなかの足跡を辿りつつある。あの世代の性的振る舞いスタイルにおける習俗のなかに、である。すなわち、幻滅・残忍・陳腐…。


ポルノグラフィにおける性交の怒濤は、意味のゼロ度に到っている[La furie copulatoire atteint dans la pornographie un zéro de sens]……(J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)




さらにこの2年前には、家父長制の復権が必要だと捉えうることまで言っている。



父の名、この鍵となる機能[Nom-du-Père, cette fonction clé]は、ラカン自身によってディスカウントされた。彼の教えの進路においてデフレーションがあり、父の名は最後にはサントーム以外の何ものでもなくなる。つまり穴の補填である[finissant par faire du Nom-du-Père rien d'autre qu'un sinthome, soit une suppléance au trou]。…父の名の症状によって穴埋めされる穴は、人間における性関係の不在の穴である[que ce trou comblé par le symptôme Nom-du-Père renvoie à l'impossible du rapport sexuel dans l'espèce humaine]。


父の名の失墜[Le déclin du Nom du Père]は、臨床において予期されなかった遠近法を導入する。ラカンの表現「人はみな狂っている。人はみな妄想する[Tout le monde est fou, c'est à dire, délirant] 」はジョークではない。人はみなセクシャリティについてどうすべきかの知の欠如に苦しみ、それぞれの仕方で性的妄想を抱くのである。〔・・・〕


私は言わなければならない。おそらくここにいるマジョリティの見解ではないだろうにも拘らず。私は考えている、カトリック教会のやり方を賞賛すべきだと。現在でさえカトリック教会は現実界の自然な秩序を守るために闘っている。生殖、セクシャリティ、家族等。もちろんそれらは時代錯誤的要素である。しかし彼らは太古の言説の現前、持続、堅固さである。あなたがたは言いうる、失われた大義として讃嘆すべき言説だと。[Je dois dire, même si ça n'est peut-être pas l'avis de tous ici, que je trouve remarquable la façon dont l'église catholique, encore aujourd'hui, lutte pour protéger le réel, son ordre naturel, pour les questions de la reproduction, de la sexualité ou de la famille. Ce sont des éléments anachroniques qui témoignent de la durée et de la solidité de ce discours ancien.Voilà un discours admirable comme cause perdue]…


失われた大義? だがラカンは言った、教会の大義はおそらく凱旋を告げると[Cause perdue ? Lacan disait cependant que la cause de l'église annonçait peut-être un triomphe]. (ラカン「カトリックの言説によって先導される宗教の凱旋 Le triomphe de la religion précédé de Discours aux catholiques」octobre 1974)。


なぜか? 自然から解放された現実界は、あまりにも悪く、ますます耐え難くなっているから。取り戻し得ないとしても失われた秩序へのノスタルジーは、イリュージョンの力をもつ。[Pourquoi ? Parce que le réel, dégagé de la nature, est pire et devient de plus en plus insupportable. Nostalgie pour un ordre perdu impossible à retrouver qui a la vigueur d'une illusion. ](J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)



柴田英里さんは聡明な方だが、ツイートをいくらか眺める限りでは、こういった観点が欠けているように見える。


こう言ってもいい、フェミニズムと性的自由は、21世紀の隠された「家父長制」なのではないか、この問いが欠けているように見える。ーー《家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的家母制の青白い反影にすぎない。the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system 》(PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)


これは、米国の社会学的フェミニストのイブリン・リードも、彼女の代表作『女性の進化 Woman's Evolution』(1975年)で見出したことではなかったか。



原理の女性化がある。両性にとって女がいる。過去は両性にとってファルスがあった[il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.](エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)


1968年に学園紛争前後以降、父の失墜が顕著になり、21世紀にはそれがいっそう明らかになっている。そのとき露われるのは、母なる女である、ーー《(原初には)母なる女の支配がある[une dominance de la femme en tant que mère]》(ラカン, S17, 11 Février 1970)


これは個人史だけでなく歴史的にも原初に母なる神があるのは疑いがたい。


歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。〔・・・〕もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた。Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, […] Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter (フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年)

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)




……………


なおジャック=アラン・ミレールの言っている「カトリック的大義」とは、実際は、支配の論理・抑圧の論理に陥りがちな父の名あるいはファルスという「脚立」ではなく、女性性原理の特性、距離のない水平的狂宴(オルギア)から、いくらの距離を取る垂直的小さな梯子「脚立」の構築ということである。





(ラカンの)脚立は梯子ではない。梯子より小さい。しかし踏み段がある[L'escabeau n'est pas l'échelle – c'est plus petit qu'une échelle – , mais il y a des marches].〔・・・〕脚立…それはフロイトの昇華の生き生きとした翻訳である [L'escabeau, …Cela traduit d'une façon imagée la sublimation freudienne](J.-A.  MILLER, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)



この脚立はほぼ次の内容に相当する。


人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)


権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。Authority implies an obedience in which men retain their freedom(ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年)

個を越えた良性の権威へのつながりの感覚(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



中井久夫はこの「良性の権威」をハンガリーの天才神話学者カール・ケレーニイ(Karl Kerenyi)に依拠しつつ、「父なるレリギオ」とも表現している。


母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収、摘要)

ケレーニーはアイドースをローマのレリギオ(religio 慎しみ)とつながる古代ギリシアの最重要な宗教的感性としている。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)