青空文庫に入庫されている坂口安吾の四百八十あまりの作品を、五年ほど前に八割ぐらいはざっと読んだのだが、最近アレはどこに書いてあったか、と探すことがあるので、すこしずつ備忘メモとしてまとめて掲げていく、おそらく断続的に。
ここでは主に「二十一歳」にかかわる備忘。
六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ〳〵ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。〔・・・〕 六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。 十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。 二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。 二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。 四十四が精神病院入院の年。 (坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」初出:「オール読物 第六巻第一二号」1951(昭和26)年12月1日発行) |
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毛頭自殺したいとは思わないのに、ともすれば、自殺慾が起きる(坂口安吾、山口修三宛書簡 昭和2年10月頃) |
◼️安吾年譜(七北数人)より |
1927 (昭和2) 年 21歳 3月、印度哲学倫理学科の学生たちによる同人誌『涅槃』第2号に研究論文を発表。学年末試験の最中、自動車にはねられて左頭部をコンクリートへ叩きつけ、頭蓋骨にヒビが入る。以後2年ほど水薬を飲みつづけるが、この後遺症もあってか鬱病の症状が現れだす。 夏頃、本気で創作を始めるが、何も書けず。自分には「命かぎりの芸術が、まだないからだ」と山口修三宛書簡に書かれている。「僕の頭は、とぎすました刀の様に、何物も透通しながら、書けない懊悩と懊悩の中で、いよいよ来るべき発狂をさぐり当ててしまつた」とも。鬱病の悪化に伴い幻聴や耳鳴り、歩行困難などの症状が出てきたので、修行生活を中断、療養のため新潟へ帰省。新潟中学時代の友人三堀謙二を訪ね、まもなく帰京。印度哲学には幻滅を感じはじめ、創作欲が旺盛になるが、一行も読書できなくなってしまう。 |
9月18日、東京府北豊島郡西巣鴨町大字池袋1060(現在の豊島区西池袋)に上枝、婆やと共に転居。以後2年8カ月ここに落ち着く。 秋頃から、岸田国士・岩田豊雄・関口次郎主宰の新劇研究所の研究生になっていた山口修三と、精神病で巣鴨保養院に入院中の沢部辰雄の2人を毎日のように訪問。山口は弟とともに遊び歩いていたらしく不在がちだったが、山口家のお喋りの婆やと深夜まで話し込む習慣がつく。 |
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二十の時、一人の山登りに、谷底へ墜落、落ちて行く時、オヤオヤ死ぬな、と思った。悲しくなかった。ほんとだ。そしたら程へて気がついた。谷川の中で、私は水の上へ首だけだしていた。ふくらんだリュックのおかげであった。 二十一の時、本を読みながら市内電車から降りたら自動車にハネ飛ばされたが、宙にグルグル一回転、頭を先に落っこったが、私は柔道の心得があり、先に手をつきながら落ちたので、頭の骨にヒビができただけで、助かった。 私は二十七まで童貞だった。 二十七か八のころから三年ほど人の女房だった女と生活したが、これからはもう散々で、円盤ややりや自動車の比ではない。窒息しなかったのが不思議至極で、思いだしても、心に暗幕がはられてしまう。 |
その後はなるべく危険に遠ざかるよう心がけて今日まで長生きしてきたが、この心がけは要するに久米の仙人で、常日ごろ生命の危険におびやかされ通しでいるのは白状しなくともお分りだろう。 お酒は二十六から飲んだが、通算して、まだ十五石ぐらいのものだろう。(坂口安吾「てのひら自伝」1947年 ) |
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東洋大学の学生だつたころ、丁度学年試験の最中であつたが、校門の前で電車から降りたところを自動車にはねとばされたことがあつた。相当に運動神経が発達してゐるから、二三間空中に舞ひあがり途中一回転のもんどりを打つて落下したが、それでも左頭部をコンクリートへ叩きつけた。頭蓋骨に亀裂がはいつて爾来二ヶ年水薬を飲みつゞけたが、当座は廃人になるんぢやないかと悩みつゞけて憂鬱であつた。(坂口安吾「天才になりそこなつた男の話」1935年) |
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そのころ二十一であつた。僕は坊主になるつもりで、睡眠は一日に四時間ときめ、十時にねて、午前二時には必ず起きて、ねむたい時は井戸端で水をかぶつた。冬でもかぶり、忽ち発熱三十九度、馬鹿らしい話だが、大マジメで、ネヂ鉢巻甲斐々々しく、熱にうなり、パーリ語の三帰文といふものを唱へ、読書に先立つて先づ精神統一をはかるといふ次第である。之は今でも覚えてゐるが、ナモータッサバガバトオ、アリハトオ、サムマーサーブッダサア云々に始まる祈祷文だ。〔・・・〕 |
睡眠不足といふものは神経衰弱の元である。悟りをひらかうといふ青道心でも身体の生理は仕方がない。僕は昔の聖賢の如く偉くないから、睡眠四時間が一年半つゞくと、神経衰弱になつた。パーリ語の祈祷文を何べん唱へても精神益々モーローとなり、意識は百方へ分裂し、遂に幻聴となり、教室で先生の声がきこへず幻聴や耳鳴りだけが響くのには大いに迷惑した。〔・・・〕 |
結局、最後に、外国語を勉強することによつて神経衰弱を退治した。目的をきめ、目的のために寧日なくかゝりきり、意識の分裂、妄想を最小限に封じることが第一、ねむくなるまでいつまでゞも辞書をオモチャに戦争継続、十時間辞書をひいても健康人の一時間ぐらゐしか能率はあがらぬけれども、二六時中、目の覚めてゐる限り徹頭徹尾辞書をひくに限る。梵語、パーリ語、チベット語、フランス語、ラテン語、之だけ一緒に習つた。おかげで病気は退治したが、習つた言葉はみんな忘れた。(坂口安吾「二十一」「現代文学 第六巻第九号」大観堂 1943(昭和18)年8月28日発行) |
東大神経科へ入院したのは二月十七八日ごろのことで、そのときは、喋ることも、歩行もできず、たゞ幻視と幻聴に苦しみつづけていた。すでに歩行も不可能であるから、兇暴期もすぎていたが、たゞ、私の忘れていないことは、一度も自殺を意志しなかったこと、たゞ生きること、そして、仕事の完成だけを考え、何よりも自殺の発作を怖れつゞけたことであった。千谷さんから、二ヶ月で必ず治してみせます、と云われたときに、私はたゞ恢復しうる感動で、胸がいっぱいであった。 こうして、四月二十日ごろ恢復退院したが、千谷さんの忠告にも拘らず、生活費を得るために、多少の仕事をせざるを得ない。どうせ仕事をするくらいなら、私はむしろ、この小説に没入した方がよかった、と、今は思う。その方が、胸の虚しさも晴れ、むしろ精神の安定を得ることができたであろうと思う。私はしかし、なるべく疲れずに、仕事をすることを考えた。そういう中途半端なものが、芸術の世界で許されるものではなく、私はテキメンに自らの空虚さに自滅したようである。 |
千谷さんから呉々も云われたように、当時の私はまだ恢復が充分ではなかったところへ、暑気に当てられ、決して多くの催眠薬を服用したとは思わぬうちに、春の病状をくりかえしていた。私は春の七八分の一程度の服用量だからと安心しているうちに、すでに中毒症状に陥ちこんでいたのであった。〔・・・〕 私は二十一の時、神経衰弱になったことがあった。この時は、耳がきこえなくなり、筋肉まで弛緩して、野球のボールが十米と投げられず、一米のドブを飛びこすこともできなかった。 この発病の原因がハッキリ記憶にない。たぶん、睡眠不足であったと思う。私は人間は四時間ねむればタクサンだという流説を信仰して、夜の十時にねむり、朝の二時に起きた。これを一年つづけているうちに、病気になったようである。 |
自動車にはねられて、頭にヒヾができたような出来事もあったが、さのみ神経にも病まなかった。また、恋愛めいたものもあったが、全然幻想的なセンチメンタルなもので、この発病に関係があろうとは思われない。神経系統の病気は男女関係に原因するという人もあるが、真に発病の原因となるのは、男女関係の破綻が睡眠不足をもたらすからで、グウグウねむっている限りは、失恋しようと、神経にひびく筈はない。 神経衰弱になってからは、むやみに妄想が起って、どうすることも出来ない。妄想さえ起らなければよいのであるから、なんでもよいから、解決のできる課題に没入すれば良いと思った。私は第一に数学を選んでやってみたが、師匠がなくては、本だけ読んでも、手の施しようがない。簡単に師匠について出来るのは語学であるから、フランス語、ラテン語、サンスクリット等々、大いに手広くやりだした。要は興味の問題であり、興味の持続が病的に衰えているから、一つの対象のみに没入するということがムリである。飽いたら、別の語学をやる、というように、一日中、あれをやり、この辞書をひき、こっちの文法に没頭し、眠くなるまで、この戦争を持続する方法を用いるのである。この方法を用いて、私はついに病気を征服することに成功した。 |
その後は今日に至るまで、かほど顕著な病状を自覚したことはない。それは私が職業上の制約をうけておらず、時に東京へ一年半、時に取手へ一年、又、小田原へ一年というグアイに、放浪生活を送ったのも、自らは意識せずに対症療法を行っており、無自覚のうちに、巧みに発病をそらしていたのかも知れない。 又、二十一の経験によって、神経衰弱の原因は睡眠不足にありと自ら断定して以来、もっぱら熟睡につとめ、午睡をむさぼることを日課としたから、自然に病気を封じることが出来たのかも知れなかった。 睡眠不足は、恐らくあらゆる人々に神経衰弱をもたらすであろう。自ら意志して病気の征服に成功した私が、特に病的だと思いこむことは出来ないのである。 私は今日に至って、職業上の過労から、二十一歳の愚を再びくりかえしてしまったのである。しかし、この愚を犯した責任の全部は私にあって、ほかの誰にもないのである。私は誰からも強制されはしなかった。時には責任感から過労も敢てしたが、必ずしも、そうする必要はなく、私が意志しさえすれば、無理な過労は避け得られる性質のものであった。 |
この春の退院後は、もはや覚醒剤もアドルムも飲むまいと思っていたが、将棋名人戦の観戦をキッカケに、覚醒剤をのんでしまった。これとても私自身の意志したことであり、すべては私一個の責任であった。 すでに事理は明白であるが、要するに、私は仕事のためには死も亦辞せず、という思いが、心に育っているのであろう。これを逆に云えば、是が非でも生きぬいて仕事を完成しなければならぬ、という胸の思いでもあるのであろう。逆のようだが、この二つは同じことだ。帰する所は、仕事がすべて、という一事だけだ。 私は今に至って、さとったが、精神の衰弱は自らの精神によって治す以外に奥の手はないものである。専門医にまかせたところで、所詮は再発する以外に仕方がない。 内臓の疾患などは、その知識のない患者にとって如何とも施す術がないけれども、精神の最上の医者は、自分以外にはいない。私が今、切にもとめているのは肉体上の健康で、精神はハッキリ、たゞ私だけのものであることを悟るに至った。
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しかし、精神の健康とは、何を指すのであろうか。たとえば、「仕事がすべて」という考え方が、すでに、あるいは不健康であるかも知れない。その場合には、私は、すでに言うべき言葉はない。たゞ知りつゝ愚を行い、仕事を遂げるだけのことである。すくなくとも、芸術の方法は、それ以外にはないようである。〔・・・〕 |
私はとりとめもなく幻想的な回想に沈んでいたが、ふと二十一歳の闘病生活を思いだして、はじめて私の精神上の疾患は、私自身が治す以外に法がないと気がついたのだ。私は不眠を怖れて仕事をためらい、最良のコンディションを待っていたが、これほど徒労のことはない。二十一歳の私はヤミクモに辞書をひき、文法書にかじりついて、あの夥しい妄想を退散せしめたではないか。不眠ならば不眠を怖れるには及ばない。ねむたさに両の目が明かなくなるまで、仕事をつゞけて、ねむたい時に、その場で寝てしまえばいゝのである。あのときの夥しい妄想や、聴力が一時的に失われたことや、運動神経まで弛緩してしまったことに比較すれば、現在の私は、はるかに健康と云える。肉体は医者にゆだねる以外に仕方がないが、精神だけは、いかなる時も自分が管理しなければならないものである。私はふと、この理に気付いたのであった。 |
(坂口安吾「わが精神の周囲」初出:「群像 第四巻第一〇号」1949(昭和24)年10月1日発行) |
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※二十歳
私は放校されたり、落第したり、中学を卒業したのは二十の年であった。十八のとき父が死んで、残されたのは借金だけということが分って、私達は長屋へ住むようになった。お前みたいな学業の嫌いな奴が大学などへ入学しても仕方がなかろう、という周囲の説で、尤も別に大学へ入学するなという命令ではなかったけれども、尤もな話であるから、私は働くことにした。小学校の代用教員になったのである。〔・・・〕 小学校の先生には道徳観の奇怪な顛倒がある。つまり教育者というものは人の師たるもので人の批難を受けないよう自戒の生活をしているが、世間一般の人間はそうではなく、したい放題の悪行に耽っているときめてしまって、だから俺達だってこれぐらいはよかろうと悪いことをやる。当人は世間の人はもっと悪いことをしている、俺のやるのは大したことではないと思いこんでいるのだが、実は世間の人にはとてもやれないような悪どい事をやるのである。〔・・・〕 |
私が辞令をもらって始めて本校を訪ねたとき、あなたの勤めるのは分校の方だからと、分校の方に住んでいる女の先生が送ってくれた。これが驚くべき美しい人なのである。こんな美しい女の人はそのときまで私は見たことがなかったので、目がさめるという美しさは実在するものだと思った。二十七の独身の人で、生涯独身で暮す考えだということを人づてにきいたが、何かしっかりした信念があるのか、非常に高貴で、慎しみ深く、親切で、女先生にありがちな中性タイプと違い、女らしい人である。私はひそかに非常にあこがれを寄せたものだ。本校と分校と殆ど交渉がないので、それっきり話を交す機会もなかったが、その後数年間、私はこの人の面影を高貴なものにだきしめていた。〔・・・〕 |
私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。生徒がいなくなり、外の先生も帰ったあと、私一人だけジッと物思いに耽っている。音といえば柱時計の音だけである。あの喧噪な校庭に人影も物音もなくなるというのが妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、自分というものがどこかへ無くなったような放心を感じる。私はそうして放心していると、柱時計の陰などから、ヤアと云って私が首をだすような幻想を感じた。ふと気がつくと、オイ、どうした、私の横に私が立っていて、私に話しかけたような気がするのである。私はその朦朧たる放心の状態が好きで、その代り、私は時々ふとそこに立っている私に話しかけて、どやされることがあった。オイ、満足しすぎちゃいけないぜ、と私を睨むのだ。 「満足はいけないのか」 「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」 「なんのために?」 「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」 |
本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ。私は夏も冬も同じ洋服を着、本は読み終ると人にやり、余分の所有品は着代えのシャツとフンドシだけで、あるとき私を訪ねてきた父兄の口からあの先生は洋服と同じようにフンドシを壁にぶらさげておくという笑い話がひろまり、へえ、そういうことは人の習慣にないことなのか、と私の方がびっくりしたものだ。〔・・・〕 |
私はそのころ太陽というものに生命を感じていた。私はふりそそぐ陽射しの中に無数の光りかがやく泡、エーテルの波を見ることができたものだ。私は青空と光を眺めるだけで、もう幸福であった。麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた。 雨の日は雨の一粒一粒の中にも、嵐の日は狂い叫ぶその音の中にも私はなつかしい命を見つめることができた。樹々の葉にも、鳥にも、虫にも、そしてあの流れる雲にも、私は常に私の心と語り合う親しい命を感じつづけていた。酒を飲まねばならぬ何の理由もなかったので、私は酒を好まなかった。女の先生の幻だけでみたされており、女の肉体も必要ではなかった。夜は疲れて熟睡した。 |
私と自然との間から次第に距離が失われ、私の感官は自然の感触とその生命によって充たされている。私はそれに直接不安ではなかったが、やっぱり麦畑の丘や原始林の木暗い下を充ちたりて歩いているとき、ふと私に話かける私の姿を木の奥や木の繁みの上や丘の土肌の上に見るのであった。彼等は常に静かであった。言葉も冷静で、やわらかかった。彼等はいつも私にこう話しかける。君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。 だが私は何事によって苦しむべきか知らなかった。私には肉体の慾望も少なかった。苦しむとは、いったい、何が苦しむのだろう。私は不幸を空想した。貧乏、病気、失恋、野心の挫折、老衰、不知、反目、絶望。私は充ち足りているのだ。不幸を手探りしても、その影すらも捉えることはできない。叱責を怖れる悪童の心のせつなさも、私にとってはなつかしい現実であった。不幸とは何物であろうか。 然し私はふと現れて私に話しかける私の影に次第に圧迫されていた。私は娼家へ行ってみようか。そして最も不潔なひどい病気にでもなってみたらいいのだろうか、と考えてみたりした。〔・・・〕 |
私は近頃、誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があるのではないかと考えるようになった。 近頃私のところへ時々訪ねてくる二人の青年がいる。二十二だ。彼等は昔は右翼団体に属していたこちこちの国粋主義者だが、今は人間の本当の生き方ということを考えているようである。この青年達は私の「堕落論」とか「淪落論」がなんとなく本当の言葉であるようにも感じているらしいが、その激しさについてこれないのである。彼等は何よりも節度を尊んでいる。〔・・・〕 |
あの頃の私はまったく自然というものの感触に溺れ、太陽の讃歌のようなものが常に魂から唄われ流れでていた。私は臆面もなく老成しきって、そういう老成の実際の空虚というものを、さとらずにいた。さとらずに、いられたのである。 私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。なぜ、やめなければならないのか。私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、それは「さとり」というものへのあこがれ、その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれであった。教員という生活に同じものが生かされぬ筈はない。私はそう思ったので、さとりへのあこがれなどというけれども、所詮名誉慾というものがあってのことで、私はそういう自分の卑しさを嘆いたものであった。 |
私は一向希望に燃えていなかった。私のあこがれは「世を捨てる」という形態の上にあったので、そして内心は世を捨てることが不安であり、正しい希望を抛棄している自覚と不安、悔恨と絶望をすでに感じつづけていたのである。まだ足りない。何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に、捨てるというヤケクソの志向が実は青春の跫音のひとつにすぎないことを、やっぱり感じつづけていた。私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そういう正しい希望へのてんからの諦めが、底に働いていたこともあったろう。
教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。 |
(坂口安吾「風と光と二十の私と」初出:「文芸 第四巻第一号(新春号)」1947(昭和22)年1月1日発行) |