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2022年1月21日金曜日

ひとりの女はトラウマ=モノ

 

例えば晩年のラカンはこう言っている。


ひとりの女はサントームである[une femme est un sinthome] (Lacan, S23, 17 Février 1976)

ひとりの女は異者である[ une femme … c'est une étrangeté].  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)



前回「享楽はモノ」で示したように、サントームはフロイトのモノの名であり、モノは異者と等価である。つまりひとりの女はモノである。




この図表の語彙はすべて等価であり、どの語を代替してもよい。ひとりの女は現実界の享楽でも、ひとりの女は不気味なもの=親密な外部でも、ひとりの女は固着でも、ひとりの女は自我に同化不能の残滓=対象aでも、ひとりの女は穴(トラウマ)でもよい。


ところでラカンはフロイトのモノを次のように定義した。



モノがわれわれの中心にあるのは唯一、排除されているという意味においてである。すなわち現実においては、モノは外部として置かれなければならない[ce das Ding, qui est là au centre, est justement au centre en ce sens qu'il est exclu, c'est-à-dire qu'en réalité il va être posé comme extérieur]。


そしてこのモノは忘却不可能な先史の大他者である。このモノの場の卓越性をフロイトは断言している、モノは異者化された[entfremdet]何ものか、私の核でありながら、私にとって異者としての何ものかの形式にあると。

[- ce das Ding, cet Autre préhistorique impossible à oublier  dont FREUD nous affirme la nécessité de la position première sous la forme de quelque chose qui est entfremdet, étranger à moi, tout en étant  au cœur de ce moi] (Lacan, S7, 23  Décembre  1959)


《モノは異者化された何ものか[das Ding, … quelque chose qui est entfremdet]》とあるので、ここで前回引用したフロイトの文を先に思い出しておこう、ーー《不気味なものは…抑圧の過程によって異者化されている[Unheimliche…durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist. ]》(フロイト『不気味なもの』第2章、1919年)ーーここでの抑圧は原抑圧=排除である。


さて、先史の大他者[Autre préhistorique]とは何か?


母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)


ーー《セミネールVIIに引き続く引き続くセミネールで、モノは対象aになる。dans le Séminaire suivant(le Séminaire VII), das Ding devient l'objet petit a》. ( J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un - 06/04/2011)



母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )



ようするにひとりの女は母であり、現実界の享楽である、ーー《フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ]》(ラカン, S23, 13 Avril 1976)




大文字の母は、その基底において、「原リアルの名」であり、「原穴の名 」である[Mère, au fond c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou] (Colette Soler, Humanisation ? ,2014)



これがジャック=アラン・ミレールが次のように言っている内実である。


確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。


だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



女性の享楽とは母なるモノの享楽[la jouissance de la Chose maternelle]なのである。母が享楽するのではない。モノ=固着であり、男女両性にある母への固着の享楽[la jouissance de la fixation sur la mère]が、女性の享楽に他ならない。



母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)



固着=穴(トラウマ)であり、穴の享楽、トラウマの享楽(トラウマの反復強迫)と呼んでもよい。



固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。

Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)



要するに身体は固着による穴=トラウマが刻印されている。


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».](ラカン, S21, 19 Février 1974



したがって身体の享楽とは身体の穴の享楽であり、繰り返せばこれが女性の享楽=穴の享楽である。


ラカンは1974年11月に次のように言った。


ファルス享楽とは身体外のものである。大他者の享楽とは、言語外、象徴界外のものである[la jouissance phallique [JΦ] est hors corps [(a)],  – la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique](ラカン、三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974)


文脈を読めばすぐわかるように、この大他者は身体である、ーー《大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ]》(ラカン、S14, 10 Mai 1967)

つまりこうである。


享楽は、身体の享楽と言語の享楽の二つの顔の下に考えうる[on peut considérer la jouissance soit sous sa face de jouissance du corps, soit sous celle de la jouissance du langage]〔J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 27/5/98)


言語の享楽とは身体の穴の穴埋めであり、剰余享楽である。つまりファルス享楽とは事実上、ファルス剰余享楽[le plus-de-jouir phallique]である。


他方、先ほど見たように身体は穴であり、身体の享楽とは身体の穴の享楽[la jouissance du corps troué]、つまり固着によってトラウマ化された身体の享楽である。これが女性の享楽である。


事実、ラカンは1974年11月にはJAとおいた身体の享楽を、翌年にはJȺ(穴の享楽)としている。



以上、何度も繰り返していることだが、晩年のラカンの女性の享楽とはセミネールⅩⅩ「アンコール」の解剖学的女性の享楽と読める箇所もある享楽とは異なり、男女両性にある享楽自体、フロイトの固着なのである。



そして固着=サントーム(現実界の症状)であり、上の表現群は固着の享楽を初めとして、すべてサントームの享楽[la jouissance du sinthome]である。



サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

われわれは言うことができる、サントームは固着の反復だと。サントームは反復プラス固着である[On peut dire que le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)


サントームの享楽とは現実界の反復であり、現実界はトラウマであるゆえ、女性の享楽とはトラウマの反復[la répétition d'un traumatisme]以外の何ものでもない。