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2022年2月19日土曜日

「枯淡」は衰えの美称にすぎず、「成熟」は積年の習慣の言い換えに過ぎない


「枯淡」は衰えの美称にすぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう。(加藤周一「老年について」 1997)



前回のニーチェの言っていることは、人が「成熟」したり「修行」を積めば、肉体を飼い馴らせると思い込むのは思い上がりだということだよ。宗教家に多いがね、この「思い上がり」は。修行というのはひょっとして肉体を衰えさせることじゃないかい、枯淡という名の似非成熟を獲得するための。


宗教は賎民の関心事である[Religionen sind Pöbel-Affairen](ニーチェ『この人を見よ』1888年)

生は悦の泉である。が、どんな泉も、賎民が来て口をつけると、毒にけがされてしまう。[Das Leben ist ein Born der Lust; aber wo das Gesindel mit trinkt, da sind alle Brunnen vergiftet. ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「賎民 Vom Gesindel」1884 年)



ーー《欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"》(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)


成熟はない。無意識としての欲望にはどんな成熟もない[il n'y pas de maturation, ni de maturité du désir comme inconscient ]( J.-A. Miller「大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 」2013)

欲動に結びついていない欲望はない[il n'y a pas de désir qui ne soit connecté à la pulsion](J.-A. MILLER, - L'Être et l'Un - 25/05/2011)




私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1888年)

欲動要求の永続的解決 [dauernde Erledigung eines Triebanspruchs]とは、欲動の飼い馴らし [die »Bändigung«des Triebes]とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな [So muß denn doch die Hexe dran]」(メフィストフェレスーーゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイ[Die Hexe Metapsychologie」である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)



信心家は豚にならないように気をつけないとな、ーー《世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚のむれのなかへ走りこんだという人間が少なくない。nicht Wenige, die ihren Teufel austreiben wollten, fuhren dabei selber in die Säue.  》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「純潔」)


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先に切り取った加藤周一は本当はちょっと文脈が違うんだが、好みの文だね


『老子図』を見た後で、私は『桧垣』の老女を想い出し、老いとは何かを考えた。もちろんそれは心身の衰えである。眼がかすみ、耳が遠くなり、脚がおそくなる。物覚えが悪くなり、喜怒哀楽の情がうすく、注意の持続も短くなる。いわゆる「枯淡」は衰えの美称に過ぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう。しかしこの世の中に、なすべきことはあり余るほどあり、なし得ることが少なくなっても、個人がその小部分に係るにすぎないと言う状況は、老若男女において変わりがない。昔も今も、憂うべきものは多く、憎むべきものは多い。知的好奇心の対象に限りがないことは、いうまでもない。しかるに現実に愛し、憎み、知るものが、涯のない世界の、極めて小さな部分にすぎないということは、老いの至るに及んでも、全く変わらない。人生の朝と夕暮に本質的なちがいはないように思われる。


本質的なちがいがあるとすれば、それは青年の後には老年が来るのに対し、老年の後には死が来るということだけだろう。(加藤周一「老年について」 1997)