以下はまず、冷戦終了直後の1993年における山内昌之(当時東京大学歴史学教授)の学士会講演「いま、なぜ民族なのか?」からの抜粋である。私が何よりも注目したいのは、《みなさんの脳裏に1つの座標軸を置いてみて下さい。座標軸の左に帝国を置きますと、その対極に位置するのは、いわゆる国民国家という存在です》という視点で語られていることだ。 |
冷戦が終わりソビエト連邦が解体したのち、世界の各地で「民族問題」と呼ばれる、大きな悲劇が相次ぎ、少なからぬ国家が分裂の危機にさえ瀕しているという現実があります。 かつてロシア帝国は、「民族の牢獄」と呼ばれる時期がありました。私は依然、この解体し分裂する前のソ連を「民族の火山」あるいは「民族の戦場」になぞらえたことがあります。しかし、いまとなってみますと、この形容すらおとなしすぎた感があります。セルビア人のように、他の民族の居住地域を実力で併合しようとするケースを見るにつけ、バルカン半島などは、さながら「民族の火薬庫」とも言えるような極めて悲惨な状況にあると思えます。〔・・・〕 |
さて、いま私たちが目にしている「国家の分裂」という現象は、多くの場合は帝国の崩壊や分解によって起きた現象です。みなさんの脳裏に1つの座標軸を置いてみて下さい。座標軸の左に帝国を置きますと、その対極に位置するのは、いわゆる国民国家という存在です。帝国は、その中に多くの民族、多くの宗教、多くの文化を担う人々が住んでいる国家です。それに対して国民国家とは、限りなく単一の民族に近く、宗教や文化も単一の要素が強くなるという傾向を持つ国家と規定します。そうすると、帝国的理念と国民国家の考え方は、全く相容れない要素が含まれており、この観点から国家の分裂を見ますと、第一次世界大戦が大きな節目になっているかと思います。 |
1914年に始まった第一次世界大戦は、1918年の終戦によって、その後の世界史に多くの歴史的衝撃を与えました。たとえば、アジア、アフリカ、ヨーロッパに跨がっていたオスマン帝国が崩壊する中で、シリア、レバノン、パレスチナという国家が生まれました。旧オスマン帝国は、およそ30以上もの国家や地域に分解していく過程を経て、現在見られるような中東の世界秩序ができあがったのです。さらにハプスブルグ朝のオーストリア・ハンガリー帝国が瓦解することによって、バルカン半島が混乱に陥り、現在に至るまで多くの問題を残していることは、ご承知の通りです。 |
帝国の分解や崩壊という観点から現代の歴史を見ますと、この現象に似た例が旧ソ連の解体です。15の社会主義共和国が独立を達成し、独立国家共同体が成立しましたが、その中でもなおかつ多くの自治共和国や多くの民族が存在しています。ロシア連邦自体もその中にまた20以上の自治共和国を抱え、かつての大きな民族がそのまま住んでいますので、ソ連が解体したから、それで民族問題が解決されたというわけではありません。ロシア連邦自体が、実はソ連を縮小した形でさらに民族問題を継承しているのです。それは、ロシア連邦が、広さにおいてもかつてのロシア帝国という“帝国の遺産”を、やや縮小した形でそのまま受け継いでいる国家だからで、その中に多くの民族が存在しているのは当然なのです。 しかし、帝国でも、うまく進めば、多民族が共存・共栄することも可能であって、帝国あるいは連邦の理念は、元来が多民族国家として繁栄する「種子」を持っているのです。 ところが、そうした考え方と、国民国家とが相容れないところに、歴史的には民族問題が起きてくる大きな背景があると思います。それのみならず、いま現に存在する規制の国家からの分離を求めるようなケースが出ております。〔・・・〕 |
現在、旧ソ連における民族問題の焦点は、たとえば中央アジア、コーカサス、ベラルーシ(白ロシア)やウクライナといったロシア連邦共和国以外の地域に住む2500万人のロシア人、かつて帝国や連邦の支配的、指導的な民族であったロシア人たちが、今度は逆に少数民族として旧ソ連の共和国に住むことになっているという現実があります。 とくにウクライナには、全人口5200万人のうちロシア人が1100万人も住み、ウクライナの全人口の約20%を占めているわけです。せっかく成立したこのウクライナという国民国家が、実はその内部にたいへん強力なライバルとして、20%ものロシア人たちを抱え込むことになったのです。〔・・・〕 |
帝国という言葉を聞くとき、我々は直ちにこれをネガティブな、マイナスのイメージだけで考える傾向があります。現在の我々の感覚で物を考えますと、世界史の事柄は全部ネガティブなものになって、20世紀以前の世界史は、全て否定されることになってしまいます。歴史というものは、現在の尺度で測りきれるものではないはずです。 たとえばオスマン帝国は、1453年にコンスタンチノープルを陥として以来、1923年のローザンヌ会議まで、多民族国家として5世紀も存在していました。この国家がもし、ただ単純に軍事的に圧迫する専制国家であったとすれば、これほどの長期にわたって存続するはずがありません。 |
帝国というものは、そこに住む多くの民族、多くの宗教を信じる人たちの生存権をどのように共存させていくかということを、何らかの形で図っていかないと成り立たない国家システムです。そういった意味では、オスマン帝国は、多くの民族や多くの宗教の共同体の平和共存に成功した国の一つであります。ハプスブルク朝のオーストリア帝国も、ある意味で、成功例と言っていいかもしれません。 つまり、ある民族の出身だから政治的にエリートになれるといったようなことではなく、国家を担い指導していくエリートの生まれる筋道といったものが、いろいろな民族、いろいろな宗教を信じる人たちに広く保障されるシステムが、帝国にはあったのです。帝国時代はある意味では、民族政策や少数民族の争いについて、むしろ問題が起きないということさえありました。 |
オスマン帝国は、確かに、専制国家には違いありませんでした。しかし、しばしば「柔らかい専制」と呼ばれるように、多くの民族を共存させるような原理を持っていました。たとえば外交を例にとると、オスマン帝国には文化を摂取する上で、ヨーロッパ人に一番近い存在であるキリスト教徒がたくさんいまして、かれらはたいへん外国語も堪能であり、人人と接触しやすいという歴史的な背景を持っておりました。 オスマン帝国外務省が1860年代のロンドン、パリ、ペテルブルク、ウィーン、ベルリンに送った大使のうち、2人までが実はトルコ人ではなくギリシア人でした。同じ60年代から70年代にかけての外相代理には、2人のアルメニア人がいます。20世紀初頭の外務省の職業外交官のうち、20%はイスラム教徒以外の人々でした。帝国にとって一番大事な任地の一つであるギリシアのアテネに1860年代に派遣された大使は、何とギリシア人でした。これは日本外交にとって大事なソウルや北京に、日本人ではなく、その任国の民族籍を持つ外交官を大使として派遣するようなものであって、たいへん象徴的なエピソードであり、帝国の持っている他民族性の柔らかい側面でありました。 |
しかし、これはオスマン帝国が広大な地域を支配していたから可能であったことで、清朝の王室がアイシンギョロ(愛新覚羅)つまり満州族出身者でありながら漢族出身の君主以上に漢文化に通じていた皇帝たちが統治するというように、帝国には、普遍的な、ある多民族国家としての宇宙的な帝国の理念があったと理解することができます。康熙、雍正、乾隆というこの3帝の時代の清朝は、世界の中心的存在として、民族問題などが表に出るはずもなかったわけで、オスマン帝国も同じです。(山内昌之「いま、なぜ民族なのか?」1993年ーー学士会講演特集号) |
この山内昌之の講演には柄谷行人の「帝国の原理」とほとんど同じことが語られている。 |
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帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年) |
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近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。〔・・・〕帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要〔・・・〕。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年) |
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柄谷行人は『世界史の構造』(2010年)で次の図表を示している。 柄谷行人の『トランスクリティーク』以来のテーゼ「資本=ネーション=国家 [Capital- Nation- State]+アソシエーション[association]」だが、このアソシエーションのポジションに帝国の原理[the principle of empire]がありうることを柄谷は思考している。それは以下の文に現れている。
ここでボロメオの環を使って次のように置いておこう。 もっとも柄谷はこうも言っている、《交換様式Dは、原初的な交換様式A(互酬性)の高次元における回復である。》(柄谷行人『世界史の構造』) これが「帝国の原理」にそのまま合致するかどうかは私は判断に迷う。何はともあれ柄谷における交換様式Dの原点はアソシエーションである。 21世紀以降の柄谷はこの原点としてのアソシエーションーーマルクスの可能なるコミュニズムーーの可能性の形態を種々の表現で探し求めていると言うことができる。
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