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2022年2月28日月曜日

国民国家と帝国の原理(山内昌之・柄谷行人)

 


以下はまず、冷戦終了直後の1993年における山内昌之(当時東京大学歴史学教授)の学士会講演「いま、なぜ民族なのか?」からの抜粋である。私が何よりも注目したいのは、《みなさんの脳裏に1つの座標軸を置いてみて下さい。座標軸の左に帝国を置きますと、その対極に位置するのは、いわゆる国民国家という存在です》という視点で語られていることだ。


冷戦が終わりソビエト連邦が解体したのち、世界の各地で「民族問題」と呼ばれる、大きな悲劇が相次ぎ、少なからぬ国家が分裂の危機にさえ瀕しているという現実があります。  


かつてロシア帝国は、「民族の牢獄」と呼ばれる時期がありました。私は依然、この解体し分裂する前のソ連を「民族の火山」あるいは「民族の戦場」になぞらえたことがあります。しかし、いまとなってみますと、この形容すらおとなしすぎた感があります。セルビア人のように、他の民族の居住地域を実力で併合しようとするケースを見るにつけ、バルカン半島などは、さながら「民族の火薬庫」とも言えるような極めて悲惨な状況にあると思えます。〔・・・〕


さて、いま私たちが目にしている「国家の分裂」という現象は、多くの場合は帝国の崩壊や分解によって起きた現象です。みなさんの脳裏に1つの座標軸を置いてみて下さい。座標軸の左に帝国を置きますと、その対極に位置するのは、いわゆる国民国家という存在です。帝国は、その中に多くの民族、多くの宗教、多くの文化を担う人々が住んでいる国家です。それに対して国民国家とは、限りなく単一の民族に近く、宗教や文化も単一の要素が強くなるという傾向を持つ国家と規定します。そうすると、帝国的理念と国民国家の考え方は、全く相容れない要素が含まれており、この観点から国家の分裂を見ますと、第一次世界大戦が大きな節目になっているかと思います。  


1914年に始まった第一次世界大戦は、1918年の終戦によって、その後の世界史に多くの歴史的衝撃を与えました。たとえば、アジア、アフリカ、ヨーロッパに跨がっていたオスマン帝国が崩壊する中で、シリア、レバノン、パレスチナという国家が生まれました。旧オスマン帝国は、およそ30以上もの国家や地域に分解していく過程を経て、現在見られるような中東の世界秩序ができあがったのです。さらにハプスブルグ朝のオーストリア・ハンガリー帝国が瓦解することによって、バルカン半島が混乱に陥り、現在に至るまで多くの問題を残していることは、ご承知の通りです。 


帝国の分解や崩壊という観点から現代の歴史を見ますと、この現象に似た例が旧ソ連の解体です。15の社会主義共和国が独立を達成し、独立国家共同体が成立しましたが、その中でもなおかつ多くの自治共和国や多くの民族が存在しています。ロシア連邦自体もその中にまた20以上の自治共和国を抱え、かつての大きな民族がそのまま住んでいますので、ソ連が解体したから、それで民族問題が解決されたというわけではありません。ロシア連邦自体が、実はソ連を縮小した形でさらに民族問題を継承しているのです。それは、ロシア連邦が、広さにおいてもかつてのロシア帝国という“帝国の遺産”を、やや縮小した形でそのまま受け継いでいる国家だからで、その中に多くの民族が存在しているのは当然なのです。  


しかし、帝国でも、うまく進めば、多民族が共存・共栄することも可能であって、帝国あるいは連邦の理念は、元来が多民族国家として繁栄する「種子」を持っているのです。  


ところが、そうした考え方と、国民国家とが相容れないところに、歴史的には民族問題が起きてくる大きな背景があると思います。それのみならず、いま現に存在する規制の国家からの分離を求めるようなケースが出ております。〔・・・〕


現在、旧ソ連における民族問題の焦点は、たとえば中央アジア、コーカサス、ベラルーシ(白ロシア)やウクライナといったロシア連邦共和国以外の地域に住む2500万人のロシア人、かつて帝国や連邦の支配的、指導的な民族であったロシア人たちが、今度は逆に少数民族として旧ソ連の共和国に住むことになっているという現実があります。 


とくにウクライナには、全人口5200万人のうちロシア人が1100万人も住み、ウクライナの全人口の約20%を占めているわけです。せっかく成立したこのウクライナという国民国家が、実はその内部にたいへん強力なライバルとして、20%ものロシア人たちを抱え込むことになったのです。〔・・・〕


帝国という言葉を聞くとき、我々は直ちにこれをネガティブな、マイナスのイメージだけで考える傾向があります。現在の我々の感覚で物を考えますと、世界史の事柄は全部ネガティブなものになって、20世紀以前の世界史は、全て否定されることになってしまいます。歴史というものは、現在の尺度で測りきれるものではないはずです。 


たとえばオスマン帝国は、1453年にコンスタンチノープルを陥として以来、1923年のローザンヌ会議まで、多民族国家として5世紀も存在していました。この国家がもし、ただ単純に軍事的に圧迫する専制国家であったとすれば、これほどの長期にわたって存続するはずがありません。

帝国というものは、そこに住む多くの民族、多くの宗教を信じる人たちの生存権をどのように共存させていくかということを、何らかの形で図っていかないと成り立たない国家システムです。そういった意味では、オスマン帝国は、多くの民族や多くの宗教の共同体の平和共存に成功した国の一つであります。ハプスブルク朝のオーストリア帝国も、ある意味で、成功例と言っていいかもしれません。


 つまり、ある民族の出身だから政治的にエリートになれるといったようなことではなく、国家を担い指導していくエリートの生まれる筋道といったものが、いろいろな民族、いろいろな宗教を信じる人たちに広く保障されるシステムが、帝国にはあったのです。帝国時代はある意味では、民族政策や少数民族の争いについて、むしろ問題が起きないということさえありました。


オスマン帝国は、確かに、専制国家には違いありませんでした。しかし、しばしば「柔らかい専制」と呼ばれるように、多くの民族を共存させるような原理を持っていました。たとえば外交を例にとると、オスマン帝国には文化を摂取する上で、ヨーロッパ人に一番近い存在であるキリスト教徒がたくさんいまして、かれらはたいへん外国語も堪能であり、人人と接触しやすいという歴史的な背景を持っておりました。  


オスマン帝国外務省が1860年代のロンドン、パリ、ペテルブルク、ウィーン、ベルリンに送った大使のうち、2人までが実はトルコ人ではなくギリシア人でした。同じ60年代から70年代にかけての外相代理には、2人のアルメニア人がいます。20世紀初頭の外務省の職業外交官のうち、20%はイスラム教徒以外の人々でした。帝国にとって一番大事な任地の一つであるギリシアのアテネに1860年代に派遣された大使は、何とギリシア人でした。これは日本外交にとって大事なソウルや北京に、日本人ではなく、その任国の民族籍を持つ外交官を大使として派遣するようなものであって、たいへん象徴的なエピソードであり、帝国の持っている他民族性の柔らかい側面でありました。  


しかし、これはオスマン帝国が広大な地域を支配していたから可能であったことで、清朝の王室がアイシンギョロ(愛新覚羅)つまり満州族出身者でありながら漢族出身の君主以上に漢文化に通じていた皇帝たちが統治するというように、帝国には、普遍的な、ある多民族国家としての宇宙的な帝国の理念があったと理解することができます。康熙、雍正、乾隆というこの3帝の時代の清朝は、世界の中心的存在として、民族問題などが表に出るはずもなかったわけで、オスマン帝国も同じです。(山内昌之「いま、なぜ民族なのか?」1993年ーー学士会講演特集号)




この山内昌之の講演には柄谷行人の「帝国の原理」とほとんど同じことが語られている。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)

近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。〔・・・〕帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要〔・・・〕。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)


柄谷行人は『世界史の構造』(2010年)で次の図表を示している。



柄谷行人の『トランスクリティーク』以来のテーゼ「資本=ネーション=国家 [Capital- Nation- State]+アソシエーション[association]」だが、このアソシエーションのポジションに帝国の原理[the principle of empire]がありうることを柄谷は思考している。それは以下の文に現れている。



ヘーゲルが『法の哲学』でとらえようとしたのは、資本=ネーション=国家という環である。このボロメオの環は、一面的なアプローチではとらえられない。ヘーゲルが右のような弁証法的記述をとったのは、そのためである。たとえば、ヘーゲルの考えから、国家主義者も、社会民主主義者も、ナショナリスト(民族主義者)も、それぞれ自らの論拠を引き出すことができる。しかも、ヘーゲルにもとづいて、それらのどれをも批判することもできる。それは、ヘーゲルが資本=ネーション=国家というボロメオの環を構造論的に把握した――彼の言い方でいえば、概念的に把握した(begreifen)――からである。ゆえに、ヘーゲルの哲学は、容易に否定することのできない力をもつのだ。

しかし、ヘーゲルにあっては、こうした環が根本的にネーションというかたちをとった想像力によって形成されていることが忘れられている。すなわち、ネーションが想像物でしかないということが忘れられている。だからまた、こうした環が揚棄される可能性があることがまったく見えなくなってしまうのである。


私はネーションの成立を西ヨーロッパに見てきた。それは、ネーションが絶対王権(主権国家)と同様に、西ヨーロッパに最初に出現したからである。そして、主権国家が他の主権国家を生み出すように、ネーション=ステートは自ら拡大することによって、他の地域にネーション=ステートを生み出した。その最初のあらわれは、ナポレオンによるヨーロッパ支配である。ナポレオンはフランス革命の理念を伝えたが、現実には、フィヒテがそうであるように、フランスに占領された地域からネーション=ステートが生まれてきたのである。アーレンとはつぎのようにいっている。


《国民国家と征服政策との内的矛盾は、ナポレオンの壮大な夢の挫折においてはっきり白日のもとに晒された。・・・・・・ナポレオンが明瞭に示したのは、一ネイションによる征服は被征服民族の民族意識の覚醒と征服者に対する抵抗をもたらすか、あるいは征服者が手段を選ばなければ、はっきりした専制に導くかだということだった。このような専制は、充分に暴虐でさえあれば異民族圧政に成功はするだろうが、その権力を維持することは、非統治者の同意にもとづく国民国家としての本国の諸制度をまず破壊してしまわなければできないのである。》(アーレント『全体主義の起源2 帝国主義』11頁)


なぜそうなのかといえば、国民国家が帝国と異なって、多数の民族や国家を支配する原理をもっていないからだ、とアーレントはいうのである。国民国家が他の国家や民族を支配するとき、それは帝国ではなく、「帝国主義」となる、と。そのように述べるとき、アーレントは、国民国家と異なる帝国の原理をローマ帝国に見出している。しかし、それは特にローマ帝国に限られるものではない。一般に、「帝国」に固有の原理なのである。


たとえば、オスマン・トルコは二〇世紀にいたるまで世界帝国として存続してきたが、その統治原理はまさに「帝国」的であった。オスマン王朝は住民をイスラム化しようとしなかった。各地の住民は固有の民族性や宗教、言語、時には政治体制や経済活動までをも、独自に保持していた。それは国民国家が成員を強制的に同質化するのとは対照的である。さらにまた、国民国家の拡張としての帝国主義が他民族に同質性を強要するのと対照的である。


オスマン「帝国」の解体、多数の民族の独立は、西欧諸国家の介入によってなされた。そのとき、西欧の諸国家は、諸民族を主権国家として帝国から解放するのだと主張した。それによって、諸国家は彼らを独立させて経済的に支配しようとしたのである。いうまでもなく、それは「帝国」ではなく「帝国主義」である。「帝国主義」とは、「帝国」の原理なしにネーション=ステートが他のネーションを支配することである。したがって、オスマン=トルコを解体させた西洋列強は、たちまちアラブ諸国のナショナリズムの反撃に出会ったのである。


「国民国家は征服者として現れれば必ず被征服民族の中に民族意識と自治の要求とを目覚めさせることになる」とアーレントはいう。だが、アジア的専制国家による征服が「帝国」となり、国民国家による征服が「帝国主義」となるのは、なぜなのか。この問題は、アーレントのいうような政治的統治の原理だけで考えることはできない。それは交換様式の観点から見ることによってのみ理解できる。


世界帝国の場合、征服は服従・貢納と安堵という交換に帰結する。つまり、世界帝国は交換様式Bにもとづく社会構成体である。広域国家である帝国は、征服された部族や国家の内部に干渉しない。ゆえに、同質化を強要することはない。むろん、支配者に対する反抗が起きないわけではない。世界帝国が版図を拡大すると、それに対する部族的反乱がたえず生じる。それがしばしば王朝を瓦解させる。しかし、それは社会のあり方を根本的に変えるものではない。帝国が滅んでも、別の帝国が再建されるからだ。


一方、国民国家の拡大としての帝国主義は、各地に国民国家を続出させる結果に終わる。それは、交換様式でいえば、帝国が交換様式Bにもとづく支配であるのに対して、帝国主義が交換様式Cにもとづく支配であるからだ。前者と違って、後者は旧来の社会構成体を根柢から変容させてしまう。すなわち、資本主義経済が部族的・農業的共同体を解体する。それが「想像の共同体」としてのネーションの基盤をもたらす。したがって、帝国の支配からは部族的反乱が生じるだけなのに、「帝国主義」的支配からは、ナショナリズムが生じる。こうして、帝国主義、つまり、国民国家による他の民族の支配は、意図せずして、国民国家を創り出してしまうのである。

国民国家はけっして白紙から生まれるのではない。それは先行する社会の「地」の上に生まれるのである。非西洋圏におけるナショナリズムの問題を考える場合、この「地」の違いに注意を払う必要がある。先に述べたように、旧来の世界は、近代世界システムの下で周辺部に追いやられたが、その状況はさまざまであった。旧世界帝国において、中核、周辺部、亜周辺部、圏外のいずれに位置したかによって、その状況が異なるのである。(柄谷行人『世界史の構造』2010年)



ここでボロメオの環を使って次のように置いておこう。


もっとも柄谷はこうも言っている、《交換様式Dは、原初的な交換様式A(互酬性)の高次元における回復である。》(柄谷行人『世界史の構造』)


これが「帝国の原理」にそのまま合致するかどうかは私は判断に迷う。何はともあれ柄谷における交換様式Dの原点はアソシエーションである。




21世紀以降の柄谷はこの原点としてのアソシエーションーーマルクスの可能なるコミュニズムーーの可能性の形態を種々の表現で探し求めていると言うことができる。


一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


自由でアソシエートした労働への変容[freien und assoziierten Arbeit verwandelt]…もし協同組合的生産[genossenschaftliche Produktion ]が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度 [kapitalistische System ]にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体[Gesamtheit der Genossenschaften ]が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキー [beständigen Anarchie]と周期的変動 [periodisch wiederkehrenden Konvulsionen]を終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、「可能なるコミュニズム [ "unmögliche“ Kommunismus]」 以外の何であろう。(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』1891年)