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2022年3月1日火曜日

悪人プーチンに魅せられる


「映画は悪人によってのみ魅惑的になる」とヒッチコックは言ったそうだ。


これはジジェクが引用している言葉で、正確な引用かどうかはわからないが、たしかにヒッチコックは似たようなことを連発しているし、ヒッチコックの映画に魅せられた者たちは誰もがそう思うだろう。


伝統的な啓蒙主義的態度の不能ぶりは、反レイシスト運動の連中がもっともよい例になる。彼らは理性的な議論のレベルでは、レイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得力のある理由を掲げる。しかし、それにもかかわらず、彼らは自らの批判の対象に明らかに魅せられている。結果として、彼らのすべての防衛は、現実の危機が発生した瞬間(たとえば、祖国が危機に瀕したとき)、崩壊してしまう。それはまるで古典的なハリウッド映画のようであり、そこでは、悪党は、――“公式的には”、最終的に非難されるにしろ、――それにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎ込まれる(ヒッチコックは強調した、映画は悪人によってのみ魅惑的になる、と)。


The impotence of the traditional Enlightenment attitude is best exemplified by the anti‐racist who, at the level of rational argumentation, produces a series of convincing reasons for rejecting the racist Other but is nonetheless clearly fascinated by the object of his critique. Consequently, all his defenses disintegrate the moment a real crisis occurs (when “the fatherland is in danger,” for example), like in the classical Hollywood film in which the villain, though he will be “officially” condemned at the end, is nonetheless the focus of our libidinal investment (Hitchcock emphasized that a film is only as alluring as its bad guy).(Zizek, LESS THAN NOTHING, 2012)



ここから話を飛躍させてこの今の世界の状況を先に言えば、かなりの割合の人がプーチンに魅せられているのではないか。


この魅惑されるメカニズムは何よりもまずフロイトの投射(投影)にある(他の要素もあるには違いないが)。


恐怖症(フォビアPhobie)には投射[Projektion]の特徴がある。それは、内部にある欲動的危険を外部にある知覚しうる危険に置き換えるのである。この投射には利点がある。なぜなら、人は知覚対象からの逃避・回避により、外的危険に対して自身を保護しうるが、内部から湧き起こる危険に対しては逃避しようがないから。der Phobie den Charakter einer Projektion zugeschrieben, indem sie eine innere Triebgefahr durch eine äußere Wahrnehmungsgefahr ersetzt. Das bringt den Vorteil, daß man sich gegen die äußere Gefahr durch Flucht und Vermeidung der Wahrnehmung schützen kann, während gegen die Gefahr von innen keine Flucht nützt. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


内部にある欲動的危険の投射とあるがこの欲動的危険とは何か。フロイトにおいては何よりもまず自己破壊欲動である。


欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)


フロイトにとって原欲動は自己破壊だが、自らを破壊しないように他者破壊に向かう(これ自体、投射である[参照])。





ここはいくらか難解なところで今はもうこれ以上詳しくは触れないが、このマゾヒズムがラカンの享楽である。


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976)


リアルな享楽とはフロイトのリアルな欲動、リアルなリビドーに他ならない。


ここではもっと簡単に言おう。要するに、人はみなその根にリアルな破壊欲動をもっているということである。


私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)



ヒッチコックの映画に魅せられる人はおそらく二種類のタイプがある。悪役に苛まれる被害者に同一化するか、それとも悪役自身に同一化するかである。


プーチンに魅せられている人も同様だろう。まずはウクライナにマゾヒズム的に同一化するか、それともプーチン自身にサディズム的に同一化するかである。


例えばプーチンにこのいま強い批判をしている人たちの中には、それにもかかわらず、プーチン自身に同一化しているように私には見えることがある。それは軍事評論家を職業にしている人たちに著しいが、ごく標準的な政治家や政治学者たちにも「プーチンとの同一化がある」という錯覚に閉じ籠る誘惑に駆られることがある。


なおフロイトラカンの基本的思考は次の通り。




この図はラカンマテームではこう示される(参照)。



Aとは事実上、言語の主体、あるいは自我であり、斜線を引かれた享楽はエスである(aは残滓)。


この図は次のように読む:人は言語によって欲動の身体に対して防衛(抑圧)している。だが常に欲動(破壊欲動)の残滓があり、この残滓を飼い馴らすことは不可能である。


この残滓をフロイトは異者(異者身体)とも呼んだ。


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

残滓…現実界のなかの異者概念(異者身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



つまり先ほどの図は基本的にはこれでよろしい。





残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, S10, 21 Novembre  1962)

フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste]〔・・・〕異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

享楽は、残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](ラカン, S10, 13 Mars 1963)



残滓、つまりここでの文脈のなかで言えば、人は常に自らのなかに小さなヒトラーが、あるいは小さなプーチンがいることを認めねばならない。


これは精神分析の世界だけではなく、表現の仕方は若干異なるとはいえ、既に哲学的-思想的にも何度も何度も語られてきている。


ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?われわれにとって重要なことは、理性的であるか否かということよりも、少なくともファシストでないかどうかということなのです。(船木 亨『ドゥルーズ』「はじめに」)


ーーこの船木亨氏の文の前半は極めて優れているが、後半はいくらかナイーヴなところがあると私には思われる。例えばナチの天才理論家シュミットにおいては、民主主義こそファシズムであることを前回示した。



最後に話を戻して言えば、ヘーゲルの「世界の夜」も「われわれの根にある悪」という文脈のなかで読みうる。


人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜[Nacht der Welt]であり、空無[leere Nichts] である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 [reines Selbst]。こちらに血まみれの頭[blutiger Kopf] が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊[weiße Gestalt] が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜がこのとき、われわれの現前に現れている。(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)



…………………


※付記

なおマゾヒズムと言っても健康ヴァージョンと病理ヴァージョン(自己破壊)があることに注意しなければならない。


ラカンはマゾヒズム において、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même..  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)

主体の自傷行為は、イマジネールな身体ではなくリビドーの身体による[l'auto mutilation du sujet […] le corps qui n'est pas le corps imaginaire mais le corps libidinal]( J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6   - 16/06/2004)


ーーリビドーの身体、すなわち欲動の身体、享楽の身体であり、自我の治外法権にあるエスの欲動蠢動としての異者身体である。


健康ヴァージョンのほうは被愛妄想である。


女性的マゾヒズムの秘密は、被愛妄想である[Le secret du masochisme féminin est l'érotomanie](J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018)

マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


フロイトはこうも書いている。


マゾヒストは、小さな、寄る辺ない、依存した子供、しかしとくにやんちゃな子供として取り扱われることを欲している。der Masochist wie ein kleines, hilfloses und abhängiges Kind behandelt werden will, besonders aber wie ein schlimmes Kind.(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)