「映画は悪人によってのみ魅惑的になる」とヒッチコックは言ったそうだ。 |
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これはジジェクが引用している言葉で、正確な引用かどうかはわからないが、たしかにヒッチコックは似たようなことを連発しているし、ヒッチコックの映画に魅せられた者たちは誰もがそう思うだろう。 |
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伝統的な啓蒙主義的態度の不能ぶりは、反レイシスト運動の連中がもっともよい例になる。彼らは理性的な議論のレベルでは、レイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得力のある理由を掲げる。しかし、それにもかかわらず、彼らは自らの批判の対象に明らかに魅せられている。結果として、彼らのすべての防衛は、現実の危機が発生した瞬間(たとえば、祖国が危機に瀕したとき)、崩壊してしまう。それはまるで古典的なハリウッド映画のようであり、そこでは、悪党は、――“公式的には”、最終的に非難されるにしろ、――それにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎ込まれる(ヒッチコックは強調した、映画は悪人によってのみ魅惑的になる、と)。 |
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The impotence of the traditional Enlightenment attitude is best exemplified by the anti‐racist who, at the level of rational argumentation, produces a series of convincing reasons for rejecting the racist Other but is nonetheless clearly fascinated by the object of his critique. Consequently, all his defenses disintegrate the moment a real crisis occurs (when “the fatherland is in danger,” for example), like in the classical Hollywood film in which the villain, though he will be “officially” condemned at the end, is nonetheless the focus of our libidinal investment (Hitchcock emphasized that a film is only as alluring as its bad guy).(Zizek, LESS THAN NOTHING, 2012) |
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ここから話を飛躍させてこの今の世界の状況を先に言えば、かなりの割合の人がプーチンに魅せられているのではないか。 |
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この魅惑されるメカニズムは何よりもまずフロイトの投射(投影)にある(他の要素もあるには違いないが)。 |
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恐怖症(フォビアPhobie)には投射[Projektion]の特徴がある。それは、内部にある欲動的危険を外部にある知覚しうる危険に置き換えるのである。この投射には利点がある。なぜなら、人は知覚対象からの逃避・回避により、外的危険に対して自身を保護しうるが、内部から湧き起こる危険に対しては逃避しようがないから。der Phobie den Charakter einer Projektion zugeschrieben, indem sie eine innere Triebgefahr durch eine äußere Wahrnehmungsgefahr ersetzt. Das bringt den Vorteil, daß man sich gegen die äußere Gefahr durch Flucht und Vermeidung der Wahrnehmung schützen kann, während gegen die Gefahr von innen keine Flucht nützt. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年) |
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内部にある欲動的危険の投射とあるがこの欲動的危険とは何か。フロイトにおいては何よりもまず自己破壊欲動である。 |
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欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
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自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
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フロイトにとって原欲動は自己破壊だが、自らを破壊しないように他者破壊に向かう(これ自体、投射である[参照])。
ヒッチコックの映画に魅せられる人はおそらく二種類のタイプがある。悪役に苛まれる被害者に同一化するか、それとも悪役自身に同一化するかである。 プーチンに魅せられている人も同様だろう。まずはウクライナにマゾヒズム的に同一化するか、それともプーチン自身にサディズム的に同一化するかである。 例えばプーチンにこのいま強い批判をしている人たちの中には、それにもかかわらず、プーチン自身に同一化しているように私には見えることがある。それは軍事評論家を職業にしている人たちに著しいが、ごく標準的な政治家や政治学者たちにも「プーチンとの同一化がある」という錯覚に閉じ籠る誘惑に駆られることがある。 なおフロイトラカンの基本的思考は次の通り。 この図はラカンマテームではこう示される(参照)。 Aとは事実上、言語の主体、あるいは自我であり、斜線を引かれた享楽はエスである(aは残滓)。 この図は次のように読む:人は言語によって欲動の身体に対して防衛(抑圧)している。だが常に欲動(破壊欲動)の残滓があり、この残滓を飼い馴らすことは不可能である。
つまり先ほどの図は基本的にはこれでよろしい。
残滓、つまりここでの文脈のなかで言えば、人は常に自らのなかに小さなヒトラーが、あるいは小さなプーチンがいることを認めねばならない。 これは精神分析の世界だけではなく、表現の仕方は若干異なるとはいえ、既に哲学的-思想的にも何度も何度も語られてきている。
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