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2022年3月4日金曜日

民主主義者はファシスト化する


まず前回示した二文から始めよう。


利他主義(愛他主義)はたんにエゴイズムの投射である[L'altruisme n'est que la projection de l'égoïsme ](J.-A. MILLER, Le partenaire-symptôme, 7 janvier 1998)

愛はエゴイズムである[Liebe …Egoismus ist. ](ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)


このエゴイズムはナルシシズムあるいは自己愛に置き換えてもよい。


ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,…l'amour c'est le narcissisme ](Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

理想自我は自己愛に適用される(自己愛のターゲットになる)[Diesem Idealich gilt nun die Selbstliebe, welche in …Ich genoß](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)


理想自我とは後に示すが、投射(投影)という他者とのイマジネールな同一化機能にかかわる。


ここまでをまとめれば、愛他主義はたんに自己愛の想像的同一化に過ぎないとなる。これが、ラカンが次のように言っている意味である。


愛はイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる、そしてあなたを装う自己イマージュであり、またそれがはぎ取られるときあなたを見捨てる自己イマージュである。[l'amour ; soit de cette image, image de soi dont l'autre vous revêt et qui vous habille, et qui vous laisse quand vous en êtes dérobée](Lacan, HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)


そもそもフロイトにとって自己愛とはたんに「この私」を愛するという意味ではないことに注意。


この区分においては左項がイマジネールな理想自我[
Idealich]、右項がシンボリックな自我理想[Ichideal]に関係する。底部の原ナルシシズムとは喪われた自己身体に関わりここにリアルがあるが、今はこれ以上触れない[参照]。


……………

以下、上の前提を示したところで、このところ断片的に記していることを簡略にまとめれば次のようなことだ。

まず基本用語の意味合いを先に確認しておく(ここでは現実界的同一化ーー超自我との同一化ーーは割愛)。

◼️自我理想は象徴的同一化の機能

ラカンの象徴的同一化のマテーム I(A)は、フロイトの『集団心理学』からの自我理想である[le mathème de l'identification symbolique de Lacan, I(A) …l'idéal du moi …à partir de la Massenpsychologie](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)


◼️理想自我は想像的同一化の機能

理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である。Le  moi-Idéal [ i'(a) ]   est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué  par la série des identifications (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

理想自我との同一化は想像的同一化である[l'identification du moi idéal, c'est-à-dire l'identification comme imaginaire]. (J.-A.  MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 17 DECEMBRE 1986)


◼️自我理想は取り入れ、理想自我は投射

投射は想像界の機能であり、取り入れは象徴界に関係する機能である[La projection est fonction de l'imaginaire, tandis que l'introjection est en relation au symbolique.](J.-A. MILLER, Extimité II - 20 novembre 1985)



次の図の青い矢印が自我理想の取り入れであり、赤丸の自我間の結びつきが理想自我の投射機能。




反ロシアでの結束の危険性」で示した簡易図なら次の通り。






フロイトはこの形の同一化によって批判力の欠如あるいは思考制止が生じ、情動興奮に支配されるようになるということを言っているのを先のリンク先で示したが、この文脈のなかで次のシラーを引用している。


だれもがひとりひとりみるとかなり賢くものわかりがよい。だが一緒になるとたちまち馬鹿になってしまう[Jeder, sieht man ihn einzeln, ist leidlich klug und verständig; Sind sie in corpore, gleich wird euch ein Dummkopf daraus].(シラー『クセーニエン』ーーゲーテとの共著[Goethe und Schiller Xenien]1796年)



さらにラカンはこの同一化こそファシズムの始まりだと言っている。


フロイトの『集団心理学と自我の分析』…それは、ヒトラー大躍進の序文[préfaçant la grande explosion hitlérienne]である。(ラカン,S8,28 Juin 1961)



先ほどの図に戻れば、自我理想のポジションは理念でもよいし、憎悪の対象でも同一化の機能をもつ。例えば「民主主義」「ナショナリズム」「神」でもよいし、「嫌韓嫌中」「反フェミニズム」「反ロシア」でもよい。


ここでは民主主義を代入しよう。





このフロイトラカンは、「例外状態に陥れば、人はみなファシズムにゾッコン」で示したナチの天才理論家シュミットの言っていることとほとんど同一である。


民主主義とは、治者と被治者と同一性、支配することと支配されることの同一性、命令することと従うことの同一性である。Demokratie (...) ist Identität von Herrscher und Beherrschten, Regierenden und Regierten, Befehlenden und Gehorchenden(カール・シュミット『憲法論』1928年)


ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった。Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen, (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)

民主主義が独裁への決定的対立物ではまったくないのと同様、独裁は民主主義の決定的な対立物ではまったくない。Diktatur ist ebensowenig der entscheidende Gegensatz zu Demokratie wie Demokratie der zu Diktatur.“ (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1926年版)



要するに民主主義とは異質なものを排除するファシズム ーーファシズムの原定義は「束になる」であることに注意ーーの相がある。


民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)



これはナショナリズムにおける同一化でももちろん同様。自己批判精神を失い欲動興奮に支配された集団になりやすい。


集団(大衆)は怠惰で短視眼である。集団は、欲動を断念することを好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題をする。denn die Massen sind träge und einsichtslos, sie lieben den Triebverzicht nicht, sind durch Argumente nicht von dessen Unvermeidlichkeit zu überzeugen, und ihre Individuen bestärken einander im Gewährenlassen ihrer Zügellosigkeit. (フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』第1章、1927年)


ーーここで民主主義の原義は大衆の支配であることを思い出しておこう(デモクラシー(democracy)=古代ギリシア語の大衆 δῆμοςdêmos)]+支配[κράτοςkratos)])



ということで、前回の「愛国者、それが悪だ」がオキライなら、「民主主義的愛国者はファシスト化する」と穏やかにーーごく常識的にーー言い直しておくよ。





…………………


実は言語自体が自我理想の機能ーー象徴的同一化機能ーーをもっている。


言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)


この言語が事実上、ラカンの父の名である。


父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから。C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi. (ラカン, ローマ講演, E278, 27 SEPTEMBRE 1953 )

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

言語は父の名である[C'est le langage qui est le Nom-du-Père]( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)


すなわちラカンの父の名とは、フロイトの自我理想、つまりエディプス的父の形式化である。


要するに自我理想は象徴界で終わる[l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique]  (Lacan, S24, 08 Février 1977)

父の名は象徴界にあり、現実界にはない[le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel]( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)


ナショナリズムが父の名の機能を通した象徴的同一化とそれに伴う想像的同一化をもたらすファシズムであるなら、究極的には言語の使用自体がファシズムである。



したがって、ラカンと親しい関係にあったロラン・バルトはこう言っている。


あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。[La langue, comme performance de tout langage, n’est ni réactionnaire ni progressiste; elle est tout simplement fasciste; car le fascisme, ce n’est pas d’empêcher de dire, c’est d’obliger à dire.](ロラン・バルト「コレージュ・ド・フランス開講講義」1977年『文学の記号学』所収)



このファシズムは言語という道具を使用して生きていかざるを得ない人間にとって避け難いとはいえ、人はそれに自覚的であるべきである。



ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。(ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1986年)


ロラン・バルトが、日本旅行記(『記号の国』)で触れた「サピア・ウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis」も基本的にはニーチェと同様の観点。


人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。. (Sapir, Mandelbaum, 1951)


ーー《フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、折檻を受ける主体である [Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage]》(Lacan, S3, 16 mai 1956)


…………


なおフロイト用語をボロメオの環に置けば次のようになる。





想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](ラカン, S2, 29 Juin 1955)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)


上のボロメオの環をラカンマテームで示せば次の通り。