2022年3月4日金曜日

愛国者、それが悪だ

 いくらか情報を追うのに退屈してきたのだが(?)、こんなのに行き当たった。




2014年と2017-2020年というわずかのあいだで数字のばらつきがひどくあってあまり信憑性はおけないがーー例えばドイツは18%から60弱%、イタリア20%から35%超になっているーー、日本の10%は一貫してる。さもありなん。安心したよ、ウクライナのゼレンスキーによる国家総動員制発令は若いときのボクでもちょっと抵抗があるな、という心境は例外ではないのを見出して。


歴史的にみれば日本の特殊性は次の話が大きく影響してるんだろう。


わが国が歴史時代に踏入った時期は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかったためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようです。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。 (中村光夫『知識階級』)


とはいえ国のために戦う用意がある人が10パーセントしかいないってのはな。ボクの観点ではこれは全然ワルイコトデハナイにしろ、日本には時にネトウヨと貶められる連中のなかに「真の愛国者」がたくさんいて、きっと彼らが率先して命を賭け国を守ってくれるダロウ・・・

もっとも国民国家成立以前は、《「国」のために自ら進んで死んでいくということに、たいへんな驚き》だったらしい。

民族の問題にとっては、ナショナリズムが大きな手掛かりになります。この民族やナショナリズムが、世界史の前面に現れてきたのは、1789年、フランス革命を契機としています。    


フランス革命以前の国家は、いわば王朝国家ですから、人々の忠誠心やアイデンティティ――自分たちはいったい何者であるのか、どういう存在なのかということを考える際の自分たちの帰属意識は、王朝あるいは王室等に寄せられていました。 

 

つまり、ブルボン朝フランスに属する人々は、まさに臣民と呼ばれ、かれらはブルボン朝王室に対する忠誠心を、自分たちのアイデンティティの帰属の拠り所にしていた。ハプスブルグ朝のオーストリア帝国の人々も同様で、王朝や王室への帰属なのであって、国家に対する帰属意識は、たいへん希薄であったのです。たとえば、フランスであの『ラ・マルセイエーズ』という歌が作られ、三色旗がうち振られて、パトリ―いわゆる「祖国」という言葉が市民権を得たのは、フランスが共和国という形態になってからです。  


つまり、フランス人が自分たちがフランス国民であると意識し、国民国家なのだという認識を持つようになってからです。いわば王朝や帝国に代わって、国民国家を支える民族意識やナショナリズムが、強く前面に出てくるようになったのです。 


これを象徴するのが軍隊の変貌で、それまでヨーロッパは多くの戦争を経験しておりましたが、基本的には傭兵を中心にした軍同士が戦いました。従って、傭兵同士の職業人としての互いの共通の理解は暗黙の諒解、日本風に言うならば一種の談合によって、この辺で手を打とうということになる。  


傭兵隊長も被害を出すのは嫌ですから、大規模な戦争には発展しない。いわば儀式としての戦争行為が、近世に至るまでヨーロッパ史の1つの特徴でした。 

  

ところが、フランス革命後になると、戦争の仕方そのものに大きな変化が生じます。フランス民族のため、あるいは国家のため、無私の貢献、忠誠心を尽くす国民軍が成立して、かれらは共和国のために死んでいく。お金ももらわず、戦争で自分たちが自ら進んで死ぬということは、それまで有り得なかったことです。  


ですから、当時オスマン帝国のパリ駐在大使は、フランスの国民軍が「国」のために自ら進んで死んでいくということに、たいへんな驚きを感じたわけです。しかも国は、傷痍軍人に対してケアをしていくという形で、愛国心をナショナリズムに結び付けていく試みもなされているのです。これもフランス革命を契機として現れた現象です。(山内昌之「いま、なぜ民族なのか?」1993年ーー学士会講演特集号)


この山内昌之の言っていることを全面的に受け入れる必要は毛ほどもないにしろ、最低限《ナショナリズム、それが戦争だ[Le nationalisme, c'est la guerre]》(フランソワ=ミッテラン、1995年)ーーこれがわからないヤツはたんにマヌケに過ぎないよ。「国民国家、それが悪だ!」「愛国者、それが悪だ!」。チガウカイ?

愛の共同体は、あるいは《信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]は…それに所属していない人たちには残酷で偏狭になる[jeder liegt Grausamkeit und Intoleranz gegen die Nichtdazugehörigen nahe. ]》(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)。愛国精神が戦争が引き起こす原動因のひとつであるのはまがいようがない。


さらに言えば、「愛国者、それが悪だ!」とは「エゴイスト、それが悪だ!」の言い換えに過ぎない、とも言っておこう。


愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する[der Liebende will den unbedingten Alleinbesitz der von ihm ersehnten Person,]〔・・・〕すなわち愛はエゴイズムである[Liebe …Egoismus ist. ](ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)

愛は、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、迷妄の力がそこでは絶頂に達する[Die Liebe ist der Zustand, wo der Mensch die Dinge am meisten so sieht, wie sie nicht sind. Die illusorische Kraft ist da auf ihrer Höhe, ebenso die versüßende, die verklärende Kraft. ](ニーチェ『反キリスト者』第23節、1888年)



ーー《利他主義(愛他主義)はたんにエゴイズムの投射である[L'altruisme n'est que la projection de l'égoïsme ]》(J.-A. MILLER, Le partenaire-symptôme, 7 janvier 1998)


以上、この記事は自己批判として書きました。ネトウヨくんたちにひそかな愛を込めて。国家のために、死を賭して、無私の貢献、忠誠心を尽してくれる愛国者たちに「多大なる敬意」を表して。