2022年3月9日水曜日

「核兵器の使用もしくはウクライナの屈辱的降伏」という二つのシナリオ

 ようやく鶴岡路人氏が触れたが、すでに一週間弱ほど前の記事だ。日本の国際政治学者たちは何をやっているのか。もしこのシナリオを受け入れているなら、いや少なくとも読んで熟考しているなら、橋下徹の主張をピント外れに批判するおバカな世論が少しは抑えられたのに。


鶴岡路人 @MichitoTsuruoka  2022年03月09日(水)

Chivvisさんによるなかなかに絶望的な分析。曰く、核兵器の使用にまでいたるエスカレーションか、ウクライナの屈辱的降伏しか考えられるシナリオがない、と。本件に関する米政府の政策シミュレーションの結果はいつもそうだった、とのこと。

How Does This End?

CHRISTOPHER S. CHIVVIS

Amid this escalation, experts can spin out an infinite number of branching scenarios on how this might end. But scores of war games conducted for the U.S. and allied governments and my own experience as the U.S. national intelligence officer for Europe suggest that if we boil it down, there are really only two paths toward ending the war: one, continued escalation, potentially across the nuclear threshold; the other, a bitter peace imposed on a defeated Ukraine that will be extremely hard for the United States and many European allies to swallow.




ところでーーここでの話とは関係ないがーー、こういうことだそうだ。



https://digitallibrary.un.org/record/820132?ln=en



Combating glorification of Nazism, neo-Nazism and other practices that contribute to fuelling contemporary forms of racism, racial discrimination, xenophobia and related intolerance  2014


米国はさておき、ウクライナは、反「ナチズムの賛美、ネオナチズム」等の国連決議になぜ反対してんのかね、少なくとも当時のウクライナはナチズム、ネオナチがお好きだったということかね(ここではアゾフ連隊の話はしないでおくけどさ)。


なお何度も示しているが、天才政治学者カール・シュミットによればファシズムは民主主義的である(参照)。



これは柄谷行人が1990年前後から何度も繰り返していることでもある。


人々は自由・民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている(『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。


それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)


現在の日本の政治学者のほとんどはこの問いを避けているように私には見える。



われわれの最高の洞察は、その洞察を受けとる資質もなく、資格もない者たちの耳に間違って入ったときには、まるでばかげたことのように、ことによると犯罪のように聞こえなければならないし――そうあるべきである!

Unsre hoechsten Einsichten muessen - und sollen! - wie Thorheiten, unter Umstaenden wie Verbrechen klingen, wenn sie unerlaubter Weise Denen zu Ohren kommen, welche nicht dafuer geartet und vorbestimmt sind. (ニーチェ『善悪の彼岸』第30番、1886年)

学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)