2022年3月6日日曜日

政治学者における「政治的なもの」の欠如

 

多くのリベラル政治学者は、「限られた知見で政策の処方箋は提示」しているんだよな、ウクライナは戦い続けるべきだと。


橋下徹は、その政治学者たちの知見に苛立っているのだな、「西側諸国は命を賭けた戦いからは逃げ、ウクライナを身代わりにさせている」知見に。



たんなる「政治評論家」である橋下徹にこのようなことをいう権利はないという批判はわからないではないが、橋下の問いは政治的決断の領野において「本質的な」ものだというのは認めている筈だ、この細谷雄一氏も。彼が橋下の問いは「本質的」だ言いながら、それにも関わらず戦いの継続を支持すると橋下の問いに応答していたツイートは消してしまったのかな、見当たらないが。でも欧米が軍事介入しない現在の状況にはひどく陰鬱になっているそうじゃないか。



橋下は政治的決断のメカニズムはしっかりと示しているのだ。その決断の提示の仕方は、彼の現在の置かれた立場にとっては、また現在ウクライナで自国のために戦っている人にとっても相応しくないという彼への批判を仮に受け入れるとしても。

橋下徹は3月5日には、数多くの批判を受けてだろう、いくらか妥協気味に次のツイートをしている。




私はこの議論においては橋下徹に敬意を表するね、われわれの生は、常に「政治的な決断」に支配されているから。


どんな倫理的/道徳的体系も、最も根源的な意味で、「政治的」な深淵に立脚している。政治とは、まさにどんな外的保証もなしに倫理的決断をすることである。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、Conclusion: The Political Suspension of the Ethical, 2012、摘要 )


学者たち自身だって、実際の生では、どんな外的保証もない倫理的決断をして生きている。ある意味で、恋愛においても政治的決断がなされる、あの女かこの女かという倫理的決断は、漱石の『明暗』の問いでもあった。人生において、人はみな学者であるよりも政治家だ。ハンナ・アーレントも『人間の条件』で似たようなことを言っていた筈だ。


ここでふたたびジジェクによるチャーチルの話を引こう。


記念すべき第二次世界大戦の最後の段階で、ウィンストン・チャーチルは政治的決断の謎を熟考した。専門家たち(経済的な、また軍事的な分析家、心理学者、気象学者…)は多様かつ念入りで洗練された分析を提供する。誰かが引き受けなければならない、シンプルで、まさにその理由で、最も難しい行為を。この複合的な多数的なもの[multitude]を置換しなければならない。多数的なものにおいては、どの一つの理屈にとってもそれに反する二つの理屈があり、逆もまたそうだ。それをシンプルな「イエス」あるいは「ノー」ーー攻撃しよう、いや待ちつづけよう…ーーに変換しなければならない。このように理屈に全的には基礎づけられえない振舞いが政治的リーダーの振舞いである。 (SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW, 2004)


橋下の言ってることは何よりもまず、学者さんたちはもう一度「イエス」か「ノー」かを問い直してみたらどうだい、という話だよ。君たちの現在の知見、それは事実上「西側諸国は命を賭けた戦いからは逃げ、ウクライナを身代わりにさせている」という知見ーーそうではないというならこの見解をまず批判したらよろしいーーこの橋下曰くの「卑怯な」知見をこのまま維持するつもりかい、という話だ。