2022年3月6日日曜日

橋下徹の言説と政治学者の言説

 



ラカン理論の華のひとつ「四つの言説」図だが、上図の右上にある「大学人の言説」は、必ずしも教育機関としての大学に所属する者の言説(=社会的関係)ではなく、知の言説、専門家の言説である。





大学人の言説は、知 (S2)の発布の上に構築されている。この知は、ドグマと仮定 (S1)の受容に宿っている。しかしこのドクマと仮定は、この言説において無視されている。特徴的に、「他者」は対象a(欲望の対象-原因)の場に置かれる。これは不満($)を生み、さらなる知の創出(S2)を促す。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016ーー四つの言説基本版


四つの言説のベースは左上の「主人の言説」であるが、この主人とは支配者の言説ではありながら、主語の言説、自分自身に対する支配者の言説でもあり、主語を使って語るかぎり、人はみな主人の言説と言っていい相がある。






主人の言説では、一つのシニフィアン(S1)が、他のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)に対して斜線を引かれた主体($)を代表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な剰余、ある残滓、あるいは「排泄物」[some disturbing surplus, some leftover or "excrement,"]を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残滓aと「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。


大学人の言説は即座にこの残滓をその対象、すなわち「他者」とみなし、それに「知」のネットワーク(S2)を適用することによって、それを「主体」に変えようとする。これが教育のプロセスの基本論理である。The discourse of the university immediately takes this leftover for its object, its "other," and tries to transform it into a "subject" by applying to it the network of "knowledge" (S2). This is the elementary logic of the pedagogical process: 

「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子供)に知を植えつけることによって、主体を作り出すのである。out of an "untamed" object (the "unsocialized" child), we produce a subject by means of an implantation of knowledge.


この言説の「抑圧」された真理は、われわれが他者に分与しようとする中立的な「知」という見せかけの背後に、われわれはつねに主人の身振りを見出すことができるということである。The "repressed" truth of this discourse is that behind the semblance of the neutral "knowledge" that we try to impart to the other, we can always locate the gesture of the master. (ジジェク『斜めから見る』1991 年)



主人の言説は先ほど示したように主語の言説の相があるとはいえ、この主人が最も典型的に現れるのはやはり政治的リーダーにおいてである。そして大学人の言説も知の言説であるとはいえ、やはり大学という教育機関に属する者たちに典型的に現れやすい。


大学人の言説の特徴は、上のStijn Vanheule2016、Zizek1991の注釈にともにあるように、中立を装って、主人ーードグマあるいは支配欲ーーを抑圧した言説である。


ここでは四つの言説の基礎構造もあわせて大学人の言説を図式化しよう。





ラカンの言説理論とははあくまで構造論的思考の下にあり、教師をやっていれば必ずこの形の言説=社会関係になる。上の図の白い部分は四つの要素が入り、グレー部分は構造である、ーー《要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。意味は「位置によって de position 」きまるのである。それは、一方で歴史と文化的コンテキストの、他方でそれらの要素が参加している体系の構造の関数である(それらに応じて変化する)》(レヴィ=ストロース『野性の思考』1962年)


この思考は構造主義の始祖レヴィ=ストロースが「私の師」といったいったマルクスにその源流を見ることができる。


経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。

Weniger als jeder andere kann mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt, den einzelnen verantwortlich machen für Verhältnisse, deren Geschöpf er sozial bleibt, sosehr er sich auch subjektiv über sie erheben mag. (マルクス『資本論』第一巻「第一版序文」1867年)



個人は社会関係=言説の所産なのである。それが基本的には四つあることをラカンは示した(プラス資本の言説)。すべての言説は真理を隠蔽した見せかけの言説である。


言説とは何か? それは、言語の存在を通して起こりうる秩序において、社会的結びつきの機能を作り上げるものである[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ](Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972)

言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972)



そしてこの言説理論の基礎構造の読み方は次の通り。



この基礎構造の上に四つの言説が乗る。そのひとつが先ほど示した大学人の言説である。


さてここで言いたいのは実はツイッター上で直近に見られた橋下徹と政治学者の論争である。橋下は明らかに主人の言説で語っている。政治学者は大学人の言説である。



ーー主人の言説から大学人の言説への移行とは、時計とは逆回りに45度回転させた言説に過ぎず、繰り返せば人の社会関係のベースはこの主人の言説である。

橋下徹は左の形で学者たちに向けて分裂した主体を隠蔽しつつ語っている。学者たちは右の形で自らの主人を隠蔽しつつ見せかけの中立性を装い語っている。


別の言い方をすれば橋下は、お前さんたちのドグマは見え見えだよと学者たちを嘲弄している。学者たちは、橋下は偉そうにものいうが、その分裂は瞭然としていると非難する。どちらの言説も抑圧されているものに触れるので互いに罵倒のし合いが始まる。少なくともあの論争はこういう構造をもっている。



いずれにせよ多くの場合、人は自分のメタ私よりも他人のメタ私のほうがよく見えるものである。


他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年)


ーー《「意識的私」の内容になりうるものであって現在はその内容になっていないものの総体を私は「メタ私」と呼んできた。》(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)


さて私のこの記事は中立性を装った大学人の言説ーーラカニアン的知に基づいた言説ーーである。私のなかにある主人を隠蔽している。ここでの話題における「私の主人」は、前回の記事で示した。